てるばかりと、小刀を膝のところへ取り上げて、その後の成行を怖ろしい思いで待っていました。
 けれども、待ち構えている役人も手先も、容易にやって来る模様は見えませんでした。かなり身体も心も疲れているから、もう寝てしまいたい時刻であったけれど、いつ役人が押しかけて来るか知れないのだから、寝てしまうわけにもゆきませんでした。
 行燈《あんどん》の影に、ぼんやりと小刀を膝の上へ載せたままで、限りのない心細い思いと、それから危険を前にした一種の張りきった心とで、お松は事のなりゆきを待っています。
 甲府から江戸までは僅かに三十余里の旅、前に長い旅をしていた経験から、それをあまりにたかを括《くく》った無謀を、ことごとにお松は覚《さと》ってくるのでありました。
「もし、役人に引き立てられて、本陣とやらへ行かねばならぬ場合には自害する、いっそ、こうなっては、その前にここで死んでしまった方がよいかも知れぬ」
 お松は、調べられて一切が曝露した暁に恥辱を取るよりは、それより前に死んでしまった方がと、さしもに気が張っているお松も、とても逃れぬ運命と死を覚悟してみると、一時に心弱くなってきて涙を落しました。
 その時に、役人の来るべき表口でなく、障子を隔てた廊下の方で人の気配がするようであります。

         十二

 お松がこうして宿に着いた時よりは少し遅れて、同じような客がこの上野原の本陣へ、同じような方向から来て宿を取りました。それはお松のように忍びやかに来たのではなく、大手を振らないまでも、旅路には心置きのない人のようであります。
 その客は、お松と同じような若い侍の姿をしていましたけれど、お松のように単独の旅ではなく、ほかに一挺の駕籠《かご》と共に、自分もここへ着く時は駕籠へは乗って来たけれども、寧《むし》ろほかの一挺の駕籠を守護して来たもののようであります。
 本陣へ着いてまもなく、守って来たほかの一挺の駕籠の人を隠すように別間へ置き、自分はその次の一室を占めました。申すまでもなく、その隠すように守護されて来た人というのはお君で、それに附いて来た人は宇津木兵馬であります。兵馬がその一室に控えている時に、これもお松が受けたと同じように、例の八州の役人の見舞を受けました。
「はて、八州の役人が何用あって、我々を詮議《せんぎ》する」
と兵馬は訝《いぶか》りましたけれど、それに応対する用意は充分であって、表面上はなんらの咎め立てを蒙《こうむ》るべき由もないのであるから、お松のような不安な心でなしに、たちどころにその役人を迎えました。
 役人は、またお松にしたように、そのいずれより来りいずれへ行くやを尋ねました。また兵馬に向って身分と姓名とを尋ねました。その時、兵馬は答えました。
「甲府勤番支配駒井能登守の家中、和田静馬と申す者」
「ナニ、貴殿が和田静馬殿と申される?」
 役人は眼を丸くしました。その上に念を押して、
「お間違いではござるまいな、しかと貴殿が和田静馬殿か」
「御念には及び申さぬ、元、駒井能登守の家中にて和田静馬と申すは、拙者のほかにはござらぬ」
「ところが、その和田静馬殿が二人ござるから、物の不思議でござる」
「なんと言われる」
「しかも、同じくこの上野原の宿屋へ今日泊り合せた客人に、同じく駒井能登守殿の家中にて、和田静馬と名乗る御仁《ごじん》がござる」
「これは不思議千万、その者はいずれの宿にいて、何を苦しんで拙者の名を騙《かた》るのか」
「それはただいま、我々が確かに会うてその名乗りを承って参った、当所の若松屋というのに、今も尋常に控えておらるる」
「はて怪しい、してその者の年頃は」
「貴殿よりは一つ二つお若うござるかな」
「それほどの年にしては大胆な。ともかく、それは心あってすることか、或いはまた旅路のいたずら心から、わざと拙者の名を用いるものか、これへ同道して突き合わせて御覧あればすぐにわかること」
「いかにも、貴殿がまことの和田静馬殿であることは、恵林寺の先触《さきぶれ》でも毛頭《もうとう》疑いのないところ、若松屋の若者こそ、甚だ怪しい、篤《とく》と吟味を致さねばならぬ」
「引捕えてこれへおつれあらば、拙者から懲《こ》らして済むものならば懲らしめ、意見して追い放すべき者ならば、意見を加えてみるも苦しうござらぬ」
「しからばその者を引捕えて、これへ連れて参ろう」
 役人や手先が立ち上った時に、兵馬はふと、何事か胸に浮んだらしく、
「お待ち下さい、なんにせよ、承れば年若の者、無下に恥辱を与えるも不憫《ふびん》ゆえ、拙者これより同道致し、穏かにその者に会うてみたい」
「それは御随意」
 兵馬は身仕度をして、わが変名の変名を名乗る若者の、何者であるかを見定めようとしました。
 若松屋の一室に和田静馬と名乗ったお松は、非常の
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