二度呼び留めましたけれども、馬子はやはり聞かないふりをして行ってしまいます。役人はあとを追っかけて来るかと思うと、それっきりなんの音沙汰もありませんでした。だからお松の乗った馬は、無事に渡し場を越えて上野原の宿へ入りました。
ここで若松屋という宿屋へ、この馬子によって案内されました。これから江戸へ行くまで、放したくない馬子だと思いました。けれども、そういうわけにはゆかないから、お松はこの馬子に定めの賃銀と若干の酒料《さかて》とを与えて、自分は、また一人で心細い宿屋の一室へ隠れるようにしています。
さてこうしてみると、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことが思い出されます。あの馬子の面《かお》を見て逃げた狼狽さもおかしいけれど、それっきりで出て来ないという男ではないはずであります。馬子を帰してしまってこれからの道も心細いが、またあの男に出て来られることも気味が悪い。お松がその両方を考えているところへ、
「お客様、まことに恐れ入りまする、八州様の御用が参りました」
「八州様の御用とは?」
「この辺をお見廻りのお手先でございます」
「役人に調べられるような筋はないが」
「さあ、どういうわけでございますか、先刻お馬でお着きになった若いお武家の方にお目にかかりたいと申して、店へお出向きになりましてございます」
「はて、先刻馬で着いたといえば、どうやらわし一人のような……」
「左様でござりまする、ほかにお馬でお着きになったお方もござりますれど、若いお武家様とおっしゃられると、あなた様のほかにはござりませぬ」
「わしに何の用向きか知らんが、会いたくないものじゃ」
「それでも、ちゃんと、おあとを見届けておいでになったものでございますから、外様《ほかさま》と違いまして、お断わり申すことはできないので困っておりまする……」
「そんならぜひもない、会いましょう、これへお通し下されたい」
とお松は言って番頭を帰しました。
けれどもこれは安からぬ思いであります。この際に役人から取調べを受けるということは一大事であります。しかしこうなってみては逃れることができません。断わることもできません。断われば職権を以て踏み込むに相違ない、逃るれば手分けをして引捕えるに相違ない、会ってみるよりほかはどうにも仕方がないのであります。このくらいなら、いっそ、がんりき[#「がんりき」に傍点]と連れになっていた方が、まだ知恵もあったろうにと思われる。そうして胸を痛めているところへ案内につれて、八州の役人と手先がズカズカと入って来ました。
お松は胸が噪《さわ》いで、気が嚇《かっ》と逆上《のぼせ》るようであります。
「ちと、お尋ね致したいが、其許様《そこもとさま》はいずれからお越しになりました」
入って来た八州の役人というのは、わりあいに丁寧な物の尋ね様です。
「拙者は甲府より参りました」
お松も一生懸命で、度胸をきめて返事をしはじめました。
「甲府はいずれのお身分」
「勤番支配駒井能登守の家中の者にござりまする」
「駒井能登守殿の御家中とな、失礼ながら御姓名は?」
「和田静馬と申しまする」
「和田静馬殿……」
と言って役人は小首を傾けましたが、
「して、これよりいずれへお越し」
「主人能登守のあとを慕うて、江戸まで出まする途中」
「ただお一人にて?」
「左様。それには少々事情ありて、主人の一行に後《おく》れました」
「ともかく、少々|御意《ぎょい》得たきことがござる故、本陣まで御足労下さるまいか」
「それは迷惑な」
「強《た》ってとはお願い申さぬ、実は貴殿のお身の上と言い、ただいま承ったところと申し、ちと不審の儀がござる」
「不審と仰せらるるのは?」
「よろしい、しからば後刻また改めてお伺い致そう、御迷惑ながらそれまでは、このお宿をお立ち出でなさらぬように願いたい」
「心得ました」
「これは御無礼の段、御用捨」
と言って役人と手先とは、ゾロゾロと帰ってしまいました。
ともかくも帰ってしまったから、お松はホッと息をつきました。ホッと息はついたけれどこれは、いよいよ安心がならないのであります。存外、立入って調べることはしなかったけれども、実はここへ検束されてしまったのと同じことであります。後刻というのはいつ頃のことか知らないが、その時に来て委細を調べられてしまえば、何もかも曝露《ばくろ》されてしまうことであります。関所を抜けて来たことも表向きになってしまわねばならぬ。駒井能登守家中ということや、和田静馬ということの化けの皮もたちどころに剥《は》がれてしまわねばならず、その上に、あられもない男装して神尾の家を抜け出したことの一部始終は、たあいもなく露見してしまうのであります。お松はようやく、絶体絶命のようなところへ追い詰められる気持に迫られて、いざといえば自害をして果
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