、郡内は名うてのところであります。ですから、なるべく今まで馬も駕籠も傭わないことにしていました。がんりき[#「がんりき」に傍点]がついていたから、それでも今まで通って来たけれど、これからさき一人で歩こうものなら、どんなうるさい勧め方をされるかわからないし、万一、自分が女と知られた上は、またどんな目に遭うか知れたものでないと思いました。
今、ここでこの馬子から馬に乗れと言われてみると、もうこれが悪強《わるじ》いの最初ではないかと思われて、その馬子の面を見たのですけれど、主人の話しぶりを見ても、その人柄を見ても、性質《たち》の悪い馬子とは見えません。
お松は心をきめて、とうとうその馬に乗ることに約束しました。
馬子は喜びました。どのみち帰り馬のことだから、賃銭も安くするようなことを言いました。お松はどこまでというきまりをここではつけませんでした。けれど、実は上野原まで一気に行ってしまおうという心で、この馬に乗ることにしました。
この馬子の面はどこやら、先に甲府の牢を破った南条という奇異なる武士の面影《おもかげ》には似ているけれども、それはお松とは更に交渉のあることではありません。
ほどなく例の猿橋まで来ました。こちらへ入る時にお松は、この有名な橋の傍へ駕籠をとどめて見て過ぎました。今、馬上からそれを見るとまた趣が変ったものであります。馬子は、この橋が水際まで三十三|尋《ひろ》あること、水の深さもまた三十三尋あること、橋の長さは十七間あることなどを、どの客人にも説いて聞かせるように、お松にも説いて聞かせました。
山谷《さんや》の立場《たてば》で休んで犬目《いぬめ》へ向けて歩ませた時分に、傍道《わきみち》から不意に姿を現わした旅人がありました。お松は早くもその旅人ががんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であることに気がついて、ヒヤリとしました。
百蔵もまたズカズカと馬の傍へ寄って、お松に向って馴々《なれなれ》しく口を利《き》き出そうとした時に、前に手綱《たづな》を曳いていた馬子が、不意に後ろを向きました。近寄って来たがんりき[#「がんりき」に傍点]がハタと面《かお》を見合せたところ、おかしいことに、がんりき[#「がんりき」に傍点]が甚だしく狼狽《ろうばい》しました。ともかく相当の悪党を以て自任しているらしいがんりき[#「がんりき」に傍点]が、この馬子の面を見ての狼狽《あわ》て方は尋常とは見えません。
それがために、せっかくお松に寄ろうとして来たがんりき[#「がんりき」に傍点]が、一言も物を言う遑《いとま》がなく、タジタジとさがって苦《にが》い面をしたが、そのまま前へ突き抜けて、トットと早足に行ってしまう有様は、逃げて行くもののようであります。がんりき[#「がんりき」に傍点]が、しかく狼狽するにかかわらず、馬子は、
「あははは、足の早い野郎だ」
と笑っていました。
なるほど、足の早い野郎で、忽《たちま》ちに後ろ影さえ見えなくなってしまいました。
「お武家様、お前様は、あの男に見込まれなさいましたね、お気をつけなさらなくちゃあいけませんぜ、あいつは執拗《しつこ》い奴でございますからなあ」
「馬子どの、お前は、あの人を知っておいでなのか」
「知っておりますよ、いやに悪党がって喜んでいる、たあいもない奴でございます」
「実は、あの者に取りつかれて困っています、なんとか遠ざける工夫はなかろうか」
お松は、ついこのことを馬子に向って口走りました。
「左様でございますねえ、こんど出て来たら取捉まえて、なんとかしてみましょう」
と馬子は言いました。なんとかしてみるというのは、どうしてみるつもりなのだろう。けれどもこの馬子ががんりき[#「がんりき」に傍点]を怖れないと反対に、がんりき[#「がんりき」に傍点]がこの馬子を怖れて逃げたことは今の挙動でわかるのですから、お松はなんとなくこの馬子を心強いものに思います。
この馬に乗ったお松は、犬目新田も過ぎ、矢壺《やつぼ》の座頭《ざとう》ころがしの険も無事に通って、例の鶴川の渡し場まで来ました。
ここは、その前の時分に宇治山田の米友が坊主にされたところであります。ここまで来る間に、どうしたのかがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵はまるきり音沙汰がありません。
前の時には、大勢の川越し人足がいたけれども、今は水の出も少ないし、人足でなしに、橋を架《か》けて橋銭を取って渡していました。定めの橋銭を払って、この橋を渡りきると、以前、川越し人足が詰めていた小屋があります。その小屋の中に休んでいたのは例の八州の役人と手先とでありました。
「これ待て」
お松を乗せた馬がこの前を通った時に呼びかけました。南条に似た馬子は、その声を聞いて聞かないようなふりして行こうとするのを、
「その馬待て」
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