《ねら》わないで、当の自分にも、言葉がかかりそうなものです。それを不意に闇の中から出て、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人だけを打ち倒したのはどういうつもりであるか、さっぱりわかりません。
「覚えてやがれ」
 ややあって、こう言ったそれは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の声でありました。それは少しばかり遠いところへ離れて聞えました。大地へ打ち倒されたのがどうかして起き上って、命からがら逃げ出した捨台詞《すてぜりふ》のように聞えて、それから後は静かになりました。お松は身体を固くして木蔭に隠れていると、
「もしもし、若いお武家」
 それは聞いたような声であります。聞いたような声で、たしかに自分を呼ぶのだとは思いましたけれども、お松はこの場合に咄嗟《とっさ》に返事をすることができませんでした。それ故になおも身を固くして木蔭にひそんでいると、どうやらその者が自分に近く探り寄って来るらしくあります。
 お松はそれで身構えをしました。がんりき[#「がんりき」に傍点]をさえ取って押えるくらいの者に、自分が身構えをしたところで甲斐のないこととは思ったけれど、それでも身構えをしていると、その者はすぐに近寄っては来ないで、そこへ蹲《うずくま》って、カチカチと燧《ひ》を切りはじめました。そしてその火を小田原提灯にうつしていることがよくわかるのであります。
 提灯をつけられてはたまらない、もう絶体絶命と思って、お松はその提灯の光を慄《ふる》えながら見ていると、意外にもその提灯の光にうつる人の面《かお》は見たようなと思うも道理、それは今日、猿橋の宿から、この上野原まで自分をのせて来た馬子でありました。この馬子を見た最初にがんりき[#「がんりき」に傍点]は逃げ出してしまいました。この次に逢った時は取って押えてやると言っていました。昨夕《ゆうべ》あの宿へ自分を送りつけた後は、鳥沢とやらへ帰ってしまったものと思っていたら、まだあの宿に泊っていたものらしい。
「どうなさいました、怖い者ではござらぬよ」
 馬子は提灯をさしつけて、お松の隠れている木下闇《このしたやみ》を照しました。お松の足は、ひとりでにその木下闇から離れて、馬子の提灯の方に引き寄せられました。
 この時に、がんりき[#「がんりき」に傍点]はどこへ行ってしまったか、姿も形も見えません。
「これから私が案内をして上げます、御安心なさいまし」
 馬子はお松の先に立って、崖道《がけみち》を桂川の岸へと下りて行きます。
 しばらくしてこの馬子は、桂川の岸にある船小屋のところまで来ました。そこで振返ってお松の面を見て莞爾《にっこり》と笑いました。お松は提灯の光でその面を見たけれども、その意味を解すことができませんでした。
 小屋の中には誰も住んではいません。炉の中には火もなければ、燃えさしもありません。
 馬子は提灯を羽目《はめ》の一端にかけて置いて、床板を上げるその中から、空俵を程よくからげたのを一つ取り出しました。それを手早く解《ほぐ》して開くと、その中にいつ用意してあったのか、一組の衣類と、見苦しからぬ拵《こしら》えの大小一腰が現われました。
 馬子は自分の衣裳を脱ぎ捨てて、空俵に包んであった衣類を着替えてしまいました。それもまた見苦しからぬ武士の着る衣裳であります。衣裳を着替えて、帯を締めて、それから足をこしらえにかかる手順が慣れたものであります。
 身仕度をしてしまってから、腰をかけて草鞋《わらじ》を二足取って、その一足をお松の前に投げ出し、
「これをお穿《は》きなさい」
 お松にあてがって、自分もまたその一足を穿く。
 お松はただこの奇異なる人の為すところを夢見るような心持で見て、その為せというままに従うよりほかはありませんでした。
「これから御身と共に、拙者も江戸立ちじゃ」
と言って、サッサと先に立って、例の提灯を持ってこの舟小屋を立ち出でました。お松も無論そのあとに従いました。小屋を出て河原の町の方を見上げると、提灯の影がいくつも飛んで、人の罵《ののし》る声などもします。
 それを見ていた奇異なる武士は、なんと思ってか自分の小田原提灯をフッと吹き消しました。四辺《あたり》はやはり真暗で、桂川の川波のみが音を立てて噪《さわ》いでいます。その暗い中で、奇異なる武士は無言にお松の手を取って引き立てました。しかしその疲れきっているのを認めて、
「拙者の背中をお貸し申そう、遠慮なさるには及ばぬ、それがたがいに楽でよろしい」
 奇異なる武士はお松を背負うて、桂川の岸の大石小石の歩きづらい中を飛び越えて、流れと共に下って行くのであります。



底本:「大菩薩峠4」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
   「大菩薩峠5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年
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