言ったって、日のあるうちに越せねえ峠じゃあございませんや、八州のお方が立戻ってでも来ようものなら、今度はちょっと抜け道がねえのでございます、もう少し休んでいらっしゃいまし」
と言いながら、がんりき[#「がんりき」に傍点]は少年の手首をとりました。
「あれ――」
少年は思わずこう言って叫びを立てました。
「そんなに吃驚《びっくり》なさることはござんすまい、お武家様、あなたは男の姿をしておいでなさるけれど、実は女でございましょう」
「左様なものではない」
「いけません、わっしは道中師でございます、旅をなさるお方の一から十まで、ちゃあんと睨《にら》んで少しの外《はず》れもないんでございますから、お隠しなすっても駄目でございます」
「隠すことはない」
「それ、それがお隠しなさるんでございます、あなた様は女でないとおっしゃっても、これが……」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はその片手を伸べて、乳のあたりを探るようにしましたから、
「無礼をするとようしゃはせぬ」
少年はツト立ち退いて刀の柄《つか》に手をかけました。がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれを驚く模様は更になく、
「ははは、たとえあなた様が男でござりましょうとも、女でいらっしゃいましょうとも、それをどうしようというわっしどもではございませぬ、御安心下さいまし。しかし、こうしてお伴《つれ》になってみるというと、その本当のところを確めておいておもらい申さぬと、臨機のかけひきというやつがうまくいかねえんでございますから」
「もう、雨も小歇《こや》みになった様子、早く本道へ戻りましょう」
「まあ、もう少しお休みなさいませ。いったい、あなた様は女の身で……どうしてまた、わざわざ一人旅をなさるんでございます、それをお聞き申したいんでございますがね。次第によっては、これでも男の端くれ、ずいぶんお力になって上げない限りもございません」
「さあ、早くあちらへ参ろう」
「まあ、よろしいじゃあございませんか、私がこうしてお聞き申すのは、実は、あなた様をどこぞでお見受け申したことがあるからでございます」
「えッ」
「たしか、あなた様を甲府の神尾主膳様のお邸のうちで、お見かけ申したことがあるように存じておりまする」
「知らぬ、知らぬ」
「あなた様は知らぬとおっしゃいますけれど、私の方では、あなた様の御主人の神尾様にも御懇意に願っておりまするし、それから、あなた様の伯母さんだかお師匠さんだか存じませんが、あのお絹さんというのは、かくべつ御懇意なんでございます、間違ったら御免下さいまし、そのお内で、たしかお松様とおっしゃるのが、あなた様にそのままのお方でございましたよ」
「どうしてそれを」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と言ってお聞きになれば、あなた様のお近づきの人はみんな、なるほどと御承知をなさるでございましょう」
「ああ、それではぜひもない」
少年はホッと息をついて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》を見ていたが、遽《にわ》かに声も言葉も打って変り、
「いかにも、わたしが神尾の邸におりました松でござりまする、こうして姿をかえて邸を脱《ぬ》けて出ましたのは、よくよくの事情があればのこと、どうぞお見のがし下さいませ」
「それそれ、それで私も安心を致しましたよ、神尾様のお身内なら、なんの、失礼ながら御親類も同様、これから、お力になってどこへなりと、あなた様のお望みのところへ落着きあそばすまで、このがんりき[#「がんりき」に傍点]が及ばずながら御案内を致しまする」
「なにぶん、お頼み致しまする」
なにぶん、頼んでいいのだか悪いのだか知らないが、この場合、お松はこう言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]に頼みました。
「ようございますとも。さあ、そう事がわかったら、こんな窮屈なところに長居をするではございません、本道をサッサと参りましょう」
それから後は存外無事でありました。無事ではあったけれども、こんなに見透《みすか》されてしまった上に、これが肩書附きの人間であることがわかってみれば、決して気味のよい道づれではありません。
しかし、こうなってみると、急にこの気味の悪い道づれと離れることもできないで、お松は笹子峠を越してしまいました。
何事か起るべくして、何事も起らずに峠を越してしまいました。人にも咎《とが》められず、狼にも襲われることがありませんでした。ただこの道案内であり道づれである男が、かえって追手の者よりも恐ろしいものであり、或いは狼よりも怖《こわ》いものであるかどうかは、まだわからないことです。
そうして黒野田の宿《しゅく》へ無事に着いて、まだ二三駅はらくに行ける時刻であったけれども、そこでひとまず泊ることになりました。がんりき[#「がんりき」に傍点]がお松を案内
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