したのは、前の本陣の宿ではなく、林屋という宿でありました。
 ここへ着いての思い出は、お松にとって少なからぬものがあります。ここの本陣へ駒井能登守と共に泊り合せた一夜の出来事は、鮮《あざや》かにその記憶に残っているのであります。
 お師匠様のお絹がここで何者にか浚《さら》われて大騒ぎを起しました。狼も棲《す》むというし、天狗も出没するという、このあたりに来た時は、あんなことがあり、帰る時にこんなことになって、剣呑《けんのん》な道づれに案内されて同じところの宿へ泊るというのも、お松にとって心強いものではありませんです。
 ところが、この宿へ着いて旅装を解くと、まもなくがんりき[#「がんりき」に傍点]の姿が見えなくなってしまいました。お松は心には充分の警戒をして、万一の時は身を殺してもと思っているのですけれども、その警戒の相手が不意になくなってみると、なんとなく拍子抜けのようでもありました。いく時たっても、がんりき[#「がんりき」に傍点]は帰って来ませんでした。ついに夕飯の時になって見ると、その食膳は一人前であります。
 これを以て見れば宿でもまた、自分に連れのあることは認めていないものと見なければなりません。またお連れ様はとも尋ねてみないことを以て見れば、この宿では全然、自分に連れのあったことをさえ想像していないらしくあります。
 お松は合点《がてん》のゆかないことに思いながらも、食事を済ましてしまいました。
 日が暮れても、風呂が済んでも、いよいよ寝る時刻になっても、とうとうがんりき[#「がんりき」に傍点]は姿を見せないのであります。
 お松はそれを合点がゆかないことに思ったけれども、また多少安心をする気にもなりました。なぜならば、あんな気味の悪い男に導かれて行くことの不安心は、慣れぬ一人旅をして歩く不安心よりも、一層不安心であるからです。
 前途はとにかく、あの男と離れたことが、かえって幸いであったと、寝床に就いた時分にホッと息をつきました。
 お松がこんな装《よそお》いをしてまで、甲府を逃れ出さねばならなかった理由は、全くあっちでは行詰《ゆきづま》ってしまったからであることは申すまでもありません。内には神尾の圧迫があり、外には筑前守へ奉公の強要があり、自分としては兵馬やお君の事が気にかかり、能登守の運命にも同情したり、主人の神尾の挙動には、身ぶるいするほどに怖れと嫌気とを催して、どうしても居堪《いたたま》らないから、この非常手段で逃げ出したものであります。
 兵馬が恵林寺に留まっていることがわかりさえすれば何のことはなかったろうけれど、それをお松は知ることができませんでした。ただこうして行くうちに、兵馬の行方《ゆくえ》を知る由もあろうかと思い、それがわからぬ時は、いっそ、江戸へ出て、外《よそ》ながら能登守やお君の身の上について知りたい、また例の与八という男の許をも尋ねてみようかというような心持でありました。
 その翌日、早朝に宿を出立すると、どうでしょう、阿弥陀《あみだ》街道の外れへ来た時分に、もうそこに、旅の装いをして、がんりき[#「がんりき」に傍点]がちゃあんと待っているではありませんか。もっとも今日は雨が降りません。がんりき[#「がんりき」に傍点]が待っていたのは、阿弥陀街道を過ぎて、笹子川の橋詰のところであります。
 お松も、はじめはそれとは気がつきませんでした。近寄って見た時に、それと知ってギョッとしました。
「お早うございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は挨拶をしました。
「これは、まあ」
と言ってお松は呆気《あっけ》に取られました。
「お待ち申しておりました」
 この分では、この男に見込まれたようなものだ。
「昨夜はどこへお泊りなさいました」
とお松は尋ねました。
「ツイこの近いところに知合いがあるんでございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれだけしか答えません。お松もその上は問うことをしませんでしたが、どうしてもこの男の道づれを断わるわけにはゆきません。
「ここは橋詰というところでございます、この次がよしケ久保と申しまして、あすこにあるのが虚空蔵《こくぞう》様で、それと違ったこっちの方に毒蛇済度《どくじゃさいど》の経石《きょういし》というものがございます、それから白の原に白野、天神坂を通って立川原へ出て橋を渡ると神戸《ごうど》、それから中初狩に下初狩、上花咲に下花咲、大月橋を渡って大月」
 こんなことを言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]は細かな道案内をしながら歩いて行きます。暢気《のんき》に歩いて行くようだけれども、絶えず往来と前後とに気を配っていることは、お松が見てもよくわかります。ことに前後から来る人の容貌を遠くから見定めようとすることと、通りすがる人を横目に見やる眼つきなん
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