ました、そこでどうして本道へ出たものかと迷っているうちに、山の中から樵夫《きこり》が出て参りました、その樵夫に尋ねてようやく本道へ出て参ることができましたけれど、その時は知らず知らずお関所を通り越しておりました、済まないこととは思いましたけれど、また先を急ぐ旅でございますから立戻るというわけにもいかず、ついついそのまま通り過ぎてしまいました、こういって言い抜けをするんでございますね。そうすると、しからば其方《そのほう》に道を教えた樵夫というのは何村の何の誰じゃとお尋ねがある、その時は、いやそれを聞こうとしているうちに、樵夫は山奥深く分け入って影も形も見えなくなりました、とこんなふうに申し上げればそれでことが済むんでございます、お関所にも抜け道があり、お調べにも言い抜けの道があるんでございますがね、やかましいのは入鉄砲《いりでっぽう》に出女《でおんな》といって、鉄砲がお関所を越して江戸の方へ入る時と、女が江戸の方からお関所を越えて乗り出す時は、なかなか詮議《せんぎ》が厳《きび》しかったものでございますがね、それも昔のことで、今はそんなでもありませんよ。そんなではないと言ったところで、このごろは世間が物騒でございますから、男が女の風《なり》をしたり、女が男の風をしたりしてお関所を晦《くら》ますようなことがあると、なかなか面倒には面倒になるんでございますね」
 こんなことを言っている間に、いつか関所の裏道を抜けてしまって、本道へ出て笹子峠を上りにかかっていました。
 なお、がんりき[#「がんりき」に傍点]は途中、いろいろの話をしてこの少年に聞かせました。丁度、そんなような雨のことですから、旅人も少ないもので、山また山が重なる笹子の峠道は、昼とは思われないほどに暗いものでありました。峠を登って行くと坊主沢のあたりへ出ました。この辺は橋が幾つもあって、下には渓流が左右から流れ下っているところもあります。
 やがて、もう峠の頂上へも近づこうとする時分に、
「こいつはいけねえ」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]が言いました。
 いま峠の上から、一隊の人が下りてくるらしくあります。この一隊の人というのは、尋常の人ではなく何か役目を帯びた人らしくあります。がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれを振仰いで、
「あれは八州様の組だ、うっかりこうしてはいられません、少しばかり姿を忍ばせましょう」
 こう言って坊主沢を左に切れて、傍道《わきみち》へ入りました。少年もまた、同じようにしないわけにはゆきません。
 なるほど、それは八州の役人らしい。幸いにしてこの役人たちは、いま横へ切れた二人の姿を見咎《みとが》めもしませんで、やはり雨の中を粛々として甲州の方へ向けて下りて行くのは、何か大捕物でもあるらしき気配であります。
「どうも危ねえ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はその横道を先に立って行きました。これは多分、天目山の方へ行かるべき路であろうと思われます。
 八州の捕方《とりかた》を避けて横道につれ込まれた少年は、この案内者に相当の信用を置いているらしいが、気味の悪い感じも相当に伴わないではありません。しかしどこまでも弱味を見せないつもりで、それに従って行くと、さして大木ではないけれども、杉の木立の暗い細道へかかりました。
 その杉の木立の中に、山神の祠《ほこら》といったような小《ささ》やかな社のあるのを指して、
「あれで暫らく休んで参りましょう、どのみち本道へかからなくてはなりません、そのうち雨も歇《や》むことでございましょう」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が先に立ってその祠の縁へ腰をかけ、
「ずいぶんお疲れなすったことでございましょうねえ」
「いいえ、それほどに疲れはしませぬ」
と言ったけれども少年は、かなりに疲れているらしくありました。
「なにしろ、お若いに一人旅ということはなさるものではございません、あなた様が男でいらっしゃるからいいようなものの、もし女でもあって御覧《ごろう》じろ、道中には狼がたくさんいますからな」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]にこう言われた時に、少年はギクッとしたようでした。そう言ったがんりき[#「がんりき」に傍点]自身もまた、妙に気がひけたらしく、
「狼、狼といえば、この山にはほんものの狼がいるんでございます、そう思うと何だか急に気味が悪くなって来た」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、わざとらしい身ぶるいをして前後を見廻しました。前後は杉の木立で、足下では沢の水が淙々《そうそう》と鳴って、空山《くうざん》の間に響きます。
 少年は、なんとなし居堪《いたたま》らないような心持になって、
「ともかく、本道へ戻ろうではござりませぬか」
「まあようござんす、まあ休んでおいでなさいまし、どんなことをしたからと
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