「そうかね、お前さんかえ。今、馬方が来ての話に二人半食い殺されたというから、その半というのはどういうわけだと聞いたら、それは食われ損なって逃げた人があるんだと言っていた、それがお前さんとは気がつかなかった。何しろ命拾いをしてよかったね」
「まあよかったというものだ。大丈夫かえ、誰にも気取《けど》られるようなことはありゃしめえな」
「大丈夫。まあその合羽をお出し」
 お角はがんりき[#「がんりき」に傍点]の手から、雨に濡れた合羽を受取って、そっと裏の方から竿にかけました。
「やれやれ」
 旅装を取ったがんりき[#「がんりき」に傍点]は火鉢の前へ坐りました。お角もまた火鉢によりかかりました。それから、ひそひそ話で、時々|目面《めがお》で笑ったり睨めたりして、かなり永いこと話が続きましたが、
「それじゃ、今夜は泊り込むとしよう、だが明日の朝は、また鳥沢まで行かなくちゃあならねえのだ」
「ほんとうに落着かない人だ、いくら足が自慢だからと言って、そうして飛び廻ってばかりしているのも因果な話」
「どうも仕方がねえや、こうしてせわしなく出来ている身体だ」
「あ、そりゃそうとお前さん[#「お前さん」は底本では「前さん」]、鳥沢へ行くのなら、お客様を一人、案内して上げてくれないか、まだお若いお侍だけれど、手形を失くしてしまって困っておいでなさる様子、抜け道を聞かしてもらいたいとわたしに頼むくらいだから、ほんとうに旅慣れない初心《うぶ》な女のような若いお侍だよ」
「なるほど、そりゃ案内してやっても悪くはねえが、こちとらと違って、あとで出世の妨げになってもよくあるめえからな、それを承知で、よくよくの事情なら、ずいぶん抜け道を案内してやらねえものでもねえ」
「そりゃお前さん、よくよくの事情があるらしいね、手形を失くしたというのは嘘《うそ》で、持たずに逃げ出して来たんだね、それで、どうやら追手がかかるものらしく、外へも出ないで隠れている様子が、あんまり痛々しいから、お前さん、ひとつ助けておやりよ、女のような優しいお侍だからかわいそうになってしまう」

         十一

 その翌朝になっても雨はしとしとと降っていましたが、それにも拘らず宇津木兵馬は、駕籠を雇ってこの宿を立ち出でました。
 兵馬は合羽を着て徒歩でこの宿を出て、尋常に甲州街道を下って行くのでありましたが、兵馬とお君の駕籠がこの宿を尋常に出かけた前に、まだ暗いうちに同じくこの宿を出でて、東へ向って下った二人の旅人がありました。
 前のは旅慣れた片手の無い男で、あとに従ったのは前髪の女にも見まほしい美少年。前のはがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵で、後のは昨日三番の室で関所の抜け道を問うた少年であります。
 兵馬お君の一行が、本街道の関所のあるところを大手を振って通るのに、がんりき[#「がんりき」に傍点]と美少年は裏へ廻って、関所のない抜け道を通ることが違っているのであります。
 本道を通ることは例外で、抜け道を通ることのみがその本職であった百蔵は、こんなことには心得たものです。
 女にも見まほしき美少年は、足を痛めたとはいうけれど、やはり旅には慣れているもののようです。しかし、両刀の重味がどうにも身にこたえるようで、それを抱えるようにして、がんりき[#「がんりき」に傍点]のあとをついて行くと、
「これでもこれ、お関所のあるべきところを無いことにして通るんでございますから、表向きにむずかしく言えばお関所破りになるのでございますね、お関所破りの罪を表向きにやかましく詮議《せんぎ》すれば、そのお関所のあるところで磔刑《はりつけ》になるのが御定法《ごじょうほう》ですから、あなた様も、わっしどもも、御定法通りにいえばこれで磔刑ものなんでございますよ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の言うことは少年をして、薄気味の悪い心持を起させないわけにはゆきません。がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれをこともなげに言って、少年が気にかける様子を尻目にかけて、
「しかし、お役人とても、そんなに野暮《やぼ》な仕打《しうち》ばかりはございません、こんなことでいちいちお関所破りをつかまえて、磔刑にかけた日には、関所の廻りは磔刑柱の林になってしまいます、旅に慣れたわっしどものようなものでなくても土地に近い人などは、わざわざ関所を通っていちいち御挨拶を申し上げてもおられないから、その抜け道や裏道を突っ切ってしまうのでございます。そんなものは、笑ってお眼こぼしでございます。それでも、こうして渡って歩くうちに、どうかして間違ってお上《かみ》の手で調べられた時には、こんなふうに言い抜けをするんでございますね、実はあの勝沼の町から出まして、駒飼のお関所へかかろうと思う途中で、ついつい道を取違えて山の中へ入ってしまい
前へ 次へ
全47ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング