くあります。少年はきまりが悪いのか、窮したせいか、下を向いていると、
「お関所の抜け路をお通りなさることや……また殿方が女の風《なり》をなさったり、女のお方が殿方にこしらえたりして、お関所をお通りになることが現われますると、それは大罪になることでござりまする」
お角にこう言われて、少年の面《かお》の色が火のように紅くなりました。
その痛々しい若い侍の室を出たお角は、しきりに小首を傾《かし》げていました。そうして何か思案することありげに廊下を渡って、一番の室へ見舞に行こうとしました。そこには同じく、雨で逗留している宇津木兵馬とお君の二人がいるのであります。
お角がそこへ行こうと思って廊下を渡ると、表の方で大声が聞えました。それも図抜けて大きな声で、
「さあさあ、大変大変、峠へ狼が出て二人半食い殺されてしまった、いやもう道中は大騒ぎ、大騒ぎ」
と言うのであります。あまりに無遠慮に大きな声でありましたから、お角の耳にも入ったし、その他の人にもみんな聞えたでありましょう。一番の室へ行こうとしたお角はこの声で直ぐに引返して、兵馬やお君を見舞わずに帳場へ帰って来ました。
その今の大きな声の持主は、この街道を往来する馬方であります。それが地声の大きいのを一層大きくして、この店へ怒鳴り込んだのであります。
宇津木兵馬の耳にもその大きな声が聞えたから愕然《がくぜん》として驚きました。スヤスヤと眠っていたお君の眼を醒《さ》まさせるくらいに大きな声でありました。
「宇津木様、何でございます、あの騒ぎは」
「峠へ狼が出たそうな」
「怖いこと、狼が?」
「そうして人を二人半食い殺したと聞えたけれど、二人はよいが、半というがちとおかしい」
兵馬とお君とはこう言って話をしている間に、例の地声の大きな馬方は店の方で、お角やその他の者を相手に、盛んに大声をあげてその講釈をしているらしくありました。それが洩れて聞えるところによれば、狼に食い殺されたのは笹子峠の七曲《ななまが》りあたりであって、食い殺された人は一人の薬売りと、それから魚屋と、もう一人危なく逃げたのは道中師であるらしく聞えます。半というのはおそらくその道中師が命からがら逃げたから、それで半と言ったのだろうと思われます。
兵馬は、その前路を控えた身で、こんな話を聞くことは、さすがに快しとはしませんでした。狼というものの存在はかねて聞いてはいるし、またこのあたりの山々にはそれが住んでいて、時あっては人里までも出て来るという話も聞きました。けれども、そんな話をお君に聞かせることはよくないと思って、それで不快の感じがしたのであります。
「夜道などをするから悪いのじゃ、悠《ゆっ》くりと宿を取って日のうちに出で、日のうちに越えてしまいさえすれば、なんのことはなかろうに、無理をするからそんなことになる」
兵馬はそう思いました。一体深山に棲《す》む狼は群れを成しているものだそうだけれど、兵馬は今までの旅に狼というものに出逢ったことがありません。狼に出逢ったことがないばかりでなく、狼というものの生きたのも死んだのもその実物を見たことはありませんでした。それは絵にかいたものだけによって、そう信じているだけでありました。
こうは言うものの、明日、この女をつれて峠を越える時に、不意にそれらの悪獣に襲われたとしたら……それに対する用意をしておかなければならないのだと思いました。
いったん帳場へ帰って、狼が人を食った話を馬方の口から詳細に聞いたあとで、お角はまた再び第一番の室、すなわち兵馬とお君のいるところへ見舞に行こうとして廊下を渡って行くと、
「ちょッ、ちょっと、お角」
裏の垣根越しに呼び留めたものがあります。
「どなた」
お角がその垣根越しを振返って見ると、雨の中を笠をかぶって合羽《かっぱ》を着た人。
「おや、お前は百さんじゃないか」
「叱《し》ッ、静かに」
「誰も見ていないから、早くその土蔵の蔭から七番の方へお廻り」
「大丈夫かえ」
「大丈夫だよ、あの裏木戸から入って」
「合点《がってん》だ」
その垣根越しの笠と合羽は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であることに紛《まぎ》れもありません。
二度まで見舞に行こうとして出端《でばな》を折られたお角は、またしても第一番の室へ行こうとした足を引返して、七番の座敷へ舞い戻って来ました。この七番の座敷というのは、自分の部屋として借りてある座敷です。
お角がそこへ戻って来た時分に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、もう草鞋《わらじ》を脱いで縁の下へ突っ込んで、合羽を抱えてその座敷へ入り込んでいました。
「おっそろしい目に逢ったよ」
「何がどうしたの」
「昨日の夕方はお前、笹子峠の七曲りで狼に出逢《でっくわ》して、命からがらで逃げて来たんだ
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