あります。
 けれども、その亭主らしいのが幾日も帰っては来ないうちに、帳場へ懇意になり、主人の庄右衛門とも心安くなりました。
 そうしているうちに番頭が病気になると、この女が帳場へ坐り込みました。帳場へ坐り込んだと言ったところで、主人を籠絡《ろうらく》したり、番頭を押しのけて坐り込んだわけではなく、自分の暇つぶしに懇意ずくで、手助けをしてやるような調子で働いてやっていました。
 ところがこの女は、人を遣《つか》うことが上手、客を扱うことに慣れきっていました。その技倆から言えば、前の番頭などは比較になるものではありません。このくらいの宿屋を三ツ四ツ預けたとて、物の数とも思わないくらいの冴《さ》えた腕を持っているように見えましたから、主人は舌を捲いていました。雇人たちは喜んでそれに使われるようになりました。それに、番頭の病気が捗々《はかばか》しくなくて湯治《とうじ》に出かけるというほどであったから、そのあとを主人も頼むようにし、当人も退屈まぎれの気になって、この女が今では、ほとんどこの店を預かっているのであります。この女というのは、別人ではなく――両国で女軽業師の親方をしていたお角であります。
 その雨の降る日に、お角は帳場に坐っていました。
「お千代さん、それでは三番のお客様も、今日は御逗留なのだね」
と言って、お千代という女中に尋ねました。
「はい、今朝は早くとおっしゃっておいででございましたが、お足が痛いからとおっしゃって、もう一日お泊りなさるそうでございます」
「そりゃそうでしょう、あのお御足《みあし》では……あまり旅にお慣れなさらないお方のようですね」
「ほんとに女のようなお若い、お美しいお侍《ひと》でいらっしゃるのに、お足を、あんなにお痛めなすっては、おかわいそうでございます」
「お見舞に上ってみましょう」
 お角はこう言って、その足を痛めた美しい侍の、三番の室というのを見舞に行こうとしました。
 ここで話題に上った三番の室というのは、それは兵馬とお君との部屋をいうのではありません。二人のいるのは一番の室であります。今の話の三番の室には刀架《かたなかけ》があって、大小の刀が置いてあります。その前の床柱に凭《もた》れてキチンと坐っているのは、兵馬よりは二ツ三ツも若かろうと思われるほどの美少年であります。
「御免下さりませ」
と言ってお角がそこへ訪ねて来ました。
「これはどなた」
という声は、少年にしてはあまりに優しい声であります。
「生憎《あいにく》の雨で、さだめて御退屈でいらせられましょう」
「これは御内儀でござったか。生憎の雨のこと故、もう一日、出立を見合せまする」
「どうぞ御悠《ごゆる》りとお留まり下さりませ、なにしろ、音に聞えたこの笹子峠でござりまする、お天気の時でさえ御難渋の道でござりまする」
「明朝は駕籠を頼み申しまする」
「はい畏《かしこ》まりました。あの、明朝はこのように雨が降りましても、やはり御出立でござりますか」
「左様……雨が降っては」
「雨が続きましたら、もう一日御逗留なさいませ、ごらんの通りの山家《やまが》、お構い申し上げることはできませんけれど」
「しかし……ちと急ぐこともある故、もし明朝は雨が降っても峠を越したいと思いまする」
「左様でござりまするか。左様ならばそのように駕籠を申しつけておきましょう」
「よろしく頼みまする」
「それではそのおつもりで……どうぞ御悠《ごゆる》りと」
 お角はお辞儀をして出て行こうとすると、
「あの、御内儀……」
 美少年は何か頼みたいことがあるもののように、立ちかけたお角を呼び留めました。
「はい」
「ちとお尋ね致したいが、あの峠へかかるまでにお関所がありましたな」
「はい、駒飼《こまかい》と申すところにお関所がござりまする」
「あの、その関所は、手形が無くては通してくれまいか」
「それはあなた様、お関所にはどちらにもお関所の御規則がありまして」
「それをどうぞして、抜けて通る路はあるまいか」
「あの、お関所の前をお通りなされずに?」
「粗忽千万《そこつせんばん》のことながら、その手形というものを途中で失うて困難の身の上、何と御内儀、よい知恵はござるまいか」
 美少年は一生懸命でこれだけのことを言いました。よほどの勇気をもってこの宿の主婦と見たお角にこのことを打明けて、相談をしてみる気になったものであります。
 しかし、これだけの相談として見れば、それだけの相談だけれど、表向きに言えば、お関所破りの相談であります。どうしたらお関所破りができるか教えてくれというようなものであります。お角はこの少年の面《かお》を篤《とく》と見ないわけにはゆきませんでした。
「それはそれはお困りのことでござりましょう、ほかのことと違いまして」
 お角も、さすがに即答がなり兼ねるらし
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