て今晩は泊めてもらい、そこで両人とも支度をととのえて、明朝にも江戸へ出かけることにしてもらいたいね。その行先は両人で相談してみるがよい。そうして兵馬さんの方は御用は済んだら、またこっちへ帰って来て、敵討《かたきうち》というやつをおやんなすったらよかろう」
 こう言いましたから、兵馬は、やっぱり呆気《あっけ》に取られていると、
「さあ、そういうことにして、これから富永屋を叩き起そう、宿屋が商売だから、いつなんどきでも叩き起して、いやな面《かお》をするはずはない、ことに恵林寺の慢心が来たといえば、庄右衛門は喜んで出迎える」
 とにかく、こうして駕籠《かご》は勝沼の町の富永屋庄右衛門という宿屋の前へ来て、再び土の上へ置かれました。
 慢心和尚はその宿屋の前へ立って、拳を上げてトントンと戸を叩きましたけれど起きませんでした。大抵の場合には、時刻を過ぎては狸寝入りをして、知っていても起きないことがあるのでしたから、慢心和尚は、やや荒く戸を叩いて、
「富永屋、富永屋……庄右衛門、庄右衛門、恵林寺の慢心だよ、慢心が出て来たのだよ、起きさっしゃい」
 こういうと慢心の利目《ききめ》が即座に現われて、家中が急に混雑をはじめました。
 慢心和尚はここの家へ二人を送り込んでから、スーッと帰ってしまいます。
 駕籠の中の主が、お君であったということを、兵馬はこの宿屋の一室へ来て、はじめて知りました。お君はその前から感づいていたけれど、口に出して言うことはできませんでした。兵馬にとっては意外千万のことです。ことに神尾主膳のために駒井能登守が陥《おとしい》れられた一条を聞いて、兵馬は気の毒と腹立ちとに堪ゆることができません。
 またその後のお松の身の上を聞いてみると、やはり危険が刻々と迫っていて、今日は逃げ出そうか、明日は忍び出そうかと、そのことのみ考えているということを聞いて、それも心配に堪えられませんでした。
 けれども、さし当っての問題は、預けられたこの女をどうするかということであります。執念深い神尾主膳の一味はこの女を生捕《いけど》って、また何か恥辱を与えんとするものらしい。さすがに尼寺は荒せなかったけれど、一歩踏み出すとあの始末です。
 甚だ迷惑千万ながら、兵馬としては、やはりこの駕籠を江戸まで送り届けることを、ともかくもしなければならないなりゆきになってしまいました。お君は、もう弱り切っていました。兵馬はお君を先に休ませて、明日の駕籠や乗物の事を心配しました。明朝と言っても、もう間もないことだから、今からどうしようという手筈《てはず》もつかないのであります。且《かつ》又《また》、弱り切ったお君の姿を見ると、このうえ駕籠に揺られて、険《けわ》しい山越しをさせることは考えものであります。
 そこで兵馬は、明日一日はここに逗留《とうりゅう》して隠れていようと思いました。その間に準備をととのえ、お君にも休息の暇を与えて、明後日の早朝に出立しようと考えたのであります。
 駕籠の中には兵馬の衣服大小の類も、路用の金も入れてありましたから、兵馬はそれを取り出して調べました。
 江戸へ送り届けて後のこの女の処分も、考えればまるで雲を掴《つか》むようなものです。まさかに能登守の本邸へ送り届けるわけにはゆくまいし、さりとて、江戸はこの女の故郷ではない。江戸へ連れ出してみての問題だが、ともかく、江戸へ連れ出しさえすればどうにかなるだろうと思いました。
 そうしてこの女を江戸へ届けて、ともかくも落着けてみてからの兵馬自身の行動は、直ちにまたこの甲州へ舞い戻って来ることであります。最も怪しむべきは神尾主膳である。駒井能登守を陥れた手段の如きは、聞いてさえその陰険卑劣なことに腹が立つ。わが狙《ねら》う仇も、確かにあの神尾が行方《ゆくえ》を知っているもののように思われてならぬ。こうなってみると、今は神尾を中心として当ってみることが最上である。場合によっては、あの邸へ斬り込んで……とまで兵馬は決心しました。
 疲れ切ったお君は、傍《かたわら》にスヤスヤと寝ているけれど、兵馬は寝もやらずに考えています。

         十

 その翌日は、あまり大降りではないけれども、とにかく雨が降りました。宇津木兵馬にとってはこの雨がかえって仕合せなくらいでありました。兵馬はお君をここで、できるだけ休養させようとしました。お君は病人のようで、兵馬はその看護をしているもののようにして、旅の用意を調えつつ、その日一日を暮らしました。
 ちょうどこの時に、この富永屋という宿屋に、一人の年増《としま》の女が逗留《とうりゅう》していました。
 この間、絹商人だという亭主らしい人と一緒に来て、その亭主らしい人はどこかへ出て行って、まだ帰って来ない間を、その年増の女がたった一人で幾日も待っているので
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