ところで、今、一場の大格闘が開かれているところであります。月が明るいから、こっちから、絵のようにその光景を見て取ることができます。それはいま奪って行った駕籠を真中にして、それを奪って行った悪者どもが、入り乱れて組み合っているのでありました。しかもこの悪者どもが相手にしているのは、たった一人の人間に過ぎないようであります。一人の人間を相手にして、寄って集《たか》って組んずほぐれつしているらしいが、その一人の人間が非常に豪傑であるらしい。
その一人の豪傑は、遠目で見たところではなんらの武器を持っていないらしい。徒手空拳で、つまり拳《こぶし》を振り廻して、片っぱしから悪者どもを撲《なぐ》り散らしているものらしいのです。兵馬は天の助けと喜びました。偶然、通りかかった旅の豪傑が、悪者どもの狼藉《ろうぜき》を見咎《みとが》めて、それを遮《さえぎ》ってくれたものだろうと喜び勇んで来て見ると、その豪傑の強いこと。遠くで見た通り、拳を固めて悪者どもの頭を、ポカリポカリと撲っているのであります。
一つ撲られたその痛さがよほど徹《こた》えると見えて、飛びついて来たり、組みついて来たりする奴等が、一つ撲られると、二三間も向うへケシ飛ばされて起き上れない有様であります。
兵馬はその勇力にも驚きましたけれども、同時に、それが自分と同じことに僧形《そうぎょう》をしている人物であると見て、なお不思議に思いながら近づいて見ると意外、それは頭と顔の円いので見紛《みまご》うべくもあらぬ師家の慢心和尚であろうとは。
「老和尚」
と言って兵馬は近づいて呼びました。
「宇津木どん」
慢心和尚はその時、悪者どもを片っぱしから撲りつけてしまって、駕籠の前に立って、抜からぬ面《かお》で兵馬を待っていました。
「どうしてここへ」
「お前さんに頼みは頼んだが、あぶないと思うから、あとを跟《つ》けて来たのさ、跟いて来て見るとこの始末さ、オホホ」
「すんでのことに、この駕籠を奪われるところでした」
「危ないところ、オホホ」
和尚は例の愛嬌のある笑い方をしました。この和尚の面の円いことと口の大きいことと、その口の中へ拳が出入りするということはかなり驚かされていたけれど、その拳の力がこれほど強かろうとは、今まで知らなかったことであり、聞きもしなかったことであります。なんとも見当のつかない使者の役目を吩附《いいつ》けておいて、あとからノコノコと跟いて来るという挙動も、なんだか人を見縊《みくび》ったようでもあります。
「それ、また危ない」
この時、疾風《はやて》のように、白刃が兵馬の頭上に飛んで来ました。それは前の覆面の二人のさむらい。兵馬が身をかわすと、慢心和尚は、うどん切りをするように、ポンポンと二人を続けさまに亀甲橋の上から、笛吹川へ落っことしてしまいました。
「オホホ」
実に要領を得ない坊主であります。兵馬は舌を捲くばかりでありました。慢心和尚は、
「さあ、兵馬さん、これからだ。八幡村へ持って行けと言ったのは、大方こんなことが起るだろうと思ったから、奴等を出し抜いたのだがね、こうして毒を抜いておけば、あとの心配がない、これからほかの方へ持って行くのだ、さあいいかえ、兵馬さん、わしの後ろへ跟《つ》いておいで」
何をするかと思って見ている間に、慢心和尚は、駕籠の棒へ手をかけて、それをグーッと一方を詰めて一方を長くしました。
「これ女人衆《おなごしゅ》や、少しの間、窮屈でもあろうがの、こういう場合だからぜひもないことじゃて。しっかりぶらさがっておいでよ」
と言って慢心和尚は、その棒の長くした方へ肩を入れて、ウンと担いでしまいました。
いくら女一人の身ではあるといえ、それを片棒で、一人で担いでしまうにはかなりの力がなければできないことであります。兵馬は、やはり呆気《あっけ》に取られていると、和尚は、両掛けの荷物でもぶらさげた気取りで、先に立ってサッサと歩き出しました。
しかもその歩き出す方向が、今まで来た八幡村へ行く方向とはまるっきり違って、東の方――またしても亀甲橋を渡り直して、もと来た方へ帰って行くのであります。初めは常の足どりで歩いていたのが、ようやく早足になりはじめます。
兵馬は後《おく》れじと和尚について走りました。あまりのことに、兵馬は和尚がどこへ行こうとするのだか尋ねる気にもなりません。
しかしながら和尚は、恵林寺へ帰るのでもなし、また尼寺へ立戻ろうとするのでもないらしく、甲州街道をどうやら勝沼の方まで出かけようとするらしいから、兵馬は怺《こら》えきれないで、
「老和尚、いったいどこへおいでなさるつもり」
と尋ねました。
「甲斐の国|石和《いさわ》川まで」
「石和川というのは?」
「この川が石和川じゃ」
「その石和川へ何しに」
兵馬は、いよいよ解《げ》
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