松林の中で焚火をしている者があります。焚火の炎が見えないほどに、幾人かの人が焚火の周囲《まわり》に群がっていて、それが今まで一言も物を言わなかったというのは、まさしく人を待ち構えているものと見なさなければなりません。それですから駕籠屋は、ギョッとして立ち竦《すく》みました。
 しかし、宇津木兵馬はそのことあるのを前から感づいて、
「構わず、ズンズン遣《や》ってくれ」
と駕籠屋を促《うなが》しました。
「おい、その駕籠、待ってくれ」
 果して焚火の周囲から声がかかります。
「構わずやれ」
 兵馬は小さな声で、またも駕籠屋を促しました。
「おい、待たねえか」
「何用じゃ」
「その駕籠の主は何の誰だか、名乗って通って貰いてえ」
「無礼千万、其方《そのほう》たちに名乗るべき筋はない」
「そっちで名乗るがいやならこっちから名乗って聞かせようか、その駕籠の中身は女であろう」
「女であろうと男であろうと、其方どもの知ったことではない。駕籠屋、早くやれ」
「おっと、おっと、ただは通さねえ、ほかでもねえが、その女をこっちへ温和《おとな》しく返してもらわなければ、お前たちにちっと痛い目を見せるんだ。向岳寺の尼寺から送り出して行く先はどこだか知らねえが、ここへかかると網を張って、附いて来た坊主の手並がどのくらいのものやら、さっき向うの橋の袂《たもと》でちょっと小手調べをやらせたが、あれがこっちの本芸だと思うと大間違い。さあさあ、痛い目をしないうちに、早く渡したり、渡したり」
「憎《にっく》い奴等」
 兵馬は金剛杖を握り締めると、彼等はバラバラと焚火の傍から走り出して、兵馬を取囲みました。兵馬は金剛杖を揮《ふる》って、駕籠をめがけて来る曲者《くせもの》を発矢《はっし》と打ち、つづいてかかる悪者の眉間《みけん》を突いて突き倒し、返す金剛杖で縦横に打ち払いました。
 この悪者どもは、たしかこのあたりに住む博徒の群れか、或いは渡り仲間《ちゅうげん》の質《たち》のよくない者共と思われます。
 兵馬は、やはりそれらを相手にすることに、さして苦しみはありませんでした。片手に打振る金剛杖で思うままに彼等を打ち倒し、突き倒すことは寧ろ面白いほどでありました。
 けれども、本文通り……敵は大勢であって、これをいつまでも相手に争うていることは、兵馬の本意ではありません。兵馬は彼等を相手にしているうちに、駕籠だけは前へ進ませようとします。
 悪者どもは、兵馬よりは駕籠をめざしているものと見えました。駕籠を守る兵馬は一人、それをやらじとする悪者は、松林の中から続々と湧いて来るようであります。
 しかし、多勢もまた兵馬の敵ではなく、その神変不思議な一本の金剛杖で支えられて、近寄ることができないで、離れてしきりに噪《さわ》いでいました。
 兵馬とても、彼等を近寄らせないことはなんの雑作もないけれども、さりとて、遠巻きのようになっているところを、どこへどう斬り抜けてよいのだか、その見当はついていないのであります。駕籠屋は駕籠を担《かつ》いだままで、ウロウロするばかり、逃げ出す勇気もありません。
「やい、しっかりやれ、敵はたった一人の痩坊主《やせぼうず》だ」
 親方らしいのが、棒を揮《ふる》って飛び出すと、それに励まされて丸くなった五六人が、兵馬を目蒐《めが》けて突貫して来ました。
 兵馬はよく見澄まして例の金剛杖で、バタバタと左右へ打ち倒す時に、不意に松葉の中から風を切って一筋の矢が、兵馬へ向いて飛んで来ました。
 危ないこと。しかし兵馬の金剛杖は、その思いがけない一筋の矢を、一髪《いっぱつ》の間《かん》に打ち落すことができました。
「この坊主は拙者が引受けるから、早く駕籠を片づけろ」
 同じく松林の中から、覆面した袴《はかま》の二人の姿が現われました。これは今までのと違って両刀、それに袴、まさしく武士のはしくれであります。それと同時に、
「それ担《かつ》げ、わっしょ、わっしょ」
 無頼者《ならずもの》の一隊は、早くも駕籠を奪ってそのままに、神輿《みこし》を担ぐように大勢して舁《かつ》ぎ上げたようです。
 兵馬がハッとする時に、左の覆面が切り込みました。
 兵馬は金剛杖でそれを横に払いました。その瞬間に、右の覆面が斬り込んで来ました。兵馬は後ろに飛び退いて小手を払いました。
 兵馬に小手を打たれてその覆面は太刀《たち》を取落したその隙に、兵馬は飛び越えて駕籠を奪い返すべく走《は》せ出すと、続いて二人の覆面はやらじと追いかけます。
 兵馬は金剛杖を打ち振り打ち振り後ろの敵に備えながら、只走《ひたばし》りに駕籠を追いかけると、かなたの松原でワーッという人声であります。駕籠も人も見えないで、その人声がひときわ高く揚りました。兵馬は気が気ではありません。
 飛んで来て見ると、橋の袂の
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