す。
なるほど、耳を澄ますと、どこかで千鳥が鳴くような心持がします。亀甲橋へ渡りかかった時に、
「右や左のお旦那様」
兵馬はその声を聞流しにする。駕籠屋も無論そんな者には取合わないで行くと、
「右や左のお旦那様」
また一人、菰《こも》をかぶって橋の欄干《らんかん》の下から物哀れな声を出しました。兵馬も駕籠舁《かごかき》もそんな者にはいよいよ取合わないでいるうちに、またしても、
「右や左のお旦那様」
橋の両側に菰をかぶったのが幾人もいて、通りかかる兵馬の一行を見てしきりに物哀れな声を出す。
「もうし、たよりの無い者でござりまする、もうし、もうし」
菰を刎《は》ね退けて一人が、駕籠の前へ立ちふさがった体《てい》は、尋常とは見られません。
兵馬は、手に突いていた金剛杖を、ズッと立ち塞がる怪しいお菰《こも》の前へ突き出しました。
それが合図となったのか、今まで前後に菰を被っていたのが、一時に刎《は》ね起きました。
「何をする」
兵馬はその金剛杖を振り上げました。
「その駕籠をこちらへ渡せ」
菰を刎ねのけたのを見れば、それは乞食体の者ではありません。それぞれ用心して来たらしい仲間体《ちゅうげんてい》のものでありました。
委細を知らない兵馬は、和尚が自分を選んで附けたのは、こんな場合のことであるなと思ったから、
「エイ」
と言って金剛杖で、先に進んだ一人を苦もなく打ち倒しました。
「この坊主」
兵馬の手並を知ってか知らないでか、怪しの悪者はバラバラと組みついて来ました。
「エイ、無礼な奴」
兵馬は身をかわして、組みついて来るのを発矢発矢《はっしはっし》と左右へ打ち倒しました。それは兵馬の働きとして敢て苦しいことではなく、彼等を打つことは、大地を打つのと同じことに、それをかわすのは、縄飛びの遊びをするのと大して変ったことはありません。
驚いて逃げ足をした駕籠舁《かごかき》も、兵馬の手並に心強く、息杖《いきづえ》を振《ふる》って加勢するくらいになったから、悪者どもは命からがら逃げ出し、或いは橋の下の河原へ落ちて、這々《ほうほう》の体《てい》で逃げ散ってしまいました。
それから兵馬は、駕籠の先に立って行手の方をうかがうと、その時分に向うから、また橋を渡って来る人影のあることを認めました。
駕籠屋を励まして長蛇のような亀甲橋を渡り切ろうとすると、左は高い岩で、右は松原から差出の磯の河原につづくのであります。月は中空に円く澄んでいました。向うから歩いて来るのは僅かに一個《ひとつ》だけの人影であります。
「少々……物をお尋ね申したいが」
笠を深く被《かぶ》って両刀を差して、袴《はかま》を着けて足を固めたまだ若い侍体《さむらいてい》の人、おそらく兵馬より若かろうと思われるほどの形でもあり、姿でもあり、またその声は、女かと思われるほどに優しい響きを持っておりました。
「はい」
兵馬はたちどまりました。駕籠はこころもち足を緩めただけで進んで行きました。
「あの、七里村の恵林寺と申すのはいずれでござりましょうな」
「恵林寺は、これを真直ぐに進んで行き、塩山駅へ出で、再び尋ねてみられるがよい、大きな寺ゆえ、直ぐに知れ申す」
「それは忝《かたじけ》のうござる」
若い侍は一礼して通り過ぎました。兵馬はその声が、なんとなく覚えのあるような声だと耳に留まったけれど、自分は近頃、あの年ばえの友達を持った覚えがありません。
「雲水様」
駕籠屋が兵馬を呼びかけました。
「何だ」
「今のあの旅の若いお侍は、ありゃ何だとお思いなさる」
「何でもなかろう、やはり旅の若い侍」
「ところが違いますね」
「何が違う」
「何が違うと言ったって雲水様、こちとらは商売柄でござんすから、その足どりを一目見れば見当がつくんでございます」
「うむ、何と見当をつけた」
「左様でござんすねえ、ありゃ女でござんすぜ、雲水様」
「女だ?」
「左様でございますよ、男の姿をしているけれども、あの足つきはありゃ男じゃあございません、たしかに女が男の姿をして逃げ出したものでございますねえ」
「なるほど」
「当人はすっかり化《ば》けたつもりでも、見る奴が見れば、一眼でそれと見破られちまうんでござんす。これから大方、江戸表へでも落ちようというんでございましょうが、道中筋で飛んでもねえ目に会わされるのは鏡にかけて見るようだ」
「なるほど」
兵馬は、さすがに駕籠屋が商売柄で、物を見ることの早いのに感心をし、そう言われてみると言葉の端々《はしばし》にも、男とは思われないようなものがあることを思い出して、長蛇のような亀甲橋を振返って、その後ろ姿を見送ります。
兵馬はその後ろ姿を見送って、異様な心を起しました。
橋を渡り終って松原へかかると、駕籠屋はまた不意に悸《ぎょっ》としました。
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