る若い尼さんよりも一層美しいものでありました。頭のかざりを下ろした尼さんとは見えません。頭巾《ずきん》を被っていた頬のあたりへ鬢《びん》の毛のほつれが見えます。永い尼寺生活をした寂しい人ではなく、まだ色香のこぼれるような美しい人であります。
 その姿を見ると、池のほとりの尼は手を振って何か合図をすると、せっかく開きかけた障子を閉めて、再び姿を現わすことをしませんでした。この美しい尼ならぬ尼は、駒井能登守の寵者《おもいもの》のお君の方《かた》であります。お君は、恵林寺へ寄進の長持と見せて、その中へ入れられてここまで送り届けられたものであります。しかもその送り届けられた後まで、お君はそのことを知りませんでした。
 お君は、あの晩に、お松の口から思い切った忠告を聞いて、お松が帰ったあとで咽喉《のど》を突いて自殺しようとしました。それは老女の手によって止められましたけれど、その後のお君は、気が狂うたと思われるばかりであります。
 その物狂わしさが静まった時分に、お君は死んでいました。自殺したのではなく、誰かの手で死なされていました。誰かの手、それはおそらく駒井能登守の手でありましょう。能登守は、老女に言いつけて、物狂わしいお君の息の根を止めさせたものと思われます。何かの薬を与えて、それによってお君は殺されていました。
 お君が再び我に帰ったのはこの尼寺へ着いた後のことで、自分は寄進物の長持の中へ入れられて、ここに送られたということもその後に庵主から聞かされました。

 慢心和尚が、宇津木兵馬を呼んで、
「お前さんに一つ頼みがある」
 兵馬は一旦この坊主から腹を立てさせられましたが、今になってみると腹も立たないのがこの坊主です。何の頼みかと思って聞いていると、
「向岳寺の尼寺から、八幡村の江曾原《えそはら》まで人を送ってもらいたい」
ということです。なおその人というのは何者であるかを兵馬に尋ねられない先に、和尚が語って聞かせるところによると、
「向岳寺の燈外庵へこのごろ泊った若い婦人がある、燈外庵の庵主は、その若い婦人を預かるには預かったけれども始末に困っている――尼寺というところは、罪を犯した女でも、一旦そこへ身を投じた以上は誰も指をさすことはできないのだが、その尼寺でもてあましている女というのは……実は、お前さんだから話すが身重《みおも》になっている――」
ということであります。和尚は真面目でありました。
「それじゃによって、尼寺でも始末に困る、あの寺でお産をさせるわけにはゆかない、よってどこぞへ預けるところはないかと、わしがところへ相談に来た、そこで、わしが思い当ったことは、この八幡村の江曾原に小泉という家がある、そこへその女を連れて行って預けるのだが……」
と言われて兵馬は奇異なる思いをしました。八幡村の小泉は、もとの自分の縁家《えんか》である。ここへ来る時も思い出のかかった家である。今その家の名をこの和尚の口から聞き、しかも身重の女を守護してその家を訪ねよと請《こ》わるることは、兵馬にとって奇異なる思いをせずにはいられないのであります。
「小泉の主人が、いつぞやわしのところへ来て、和尚様、悪い女のために戒名《かいみょう》を一つ附けてやって下さいというから、わしは、よしよし、悪い女ならば悪女大姉《あくじょだいし》とつけてやろうと言うたら、有難うございます、そんなら悪女大姉とつけていただきますと言って帰った、その悪女大姉の家へ、また悪女を一人送り込むというのも因縁《いんねん》じゃ。この役はほかの者ではつとまらぬ、お前さんでなくてはつとまらぬ」
 兵馬は、いよいよ奇異なる思いをして、とかくの返事に迷いましたけれど、思い切って承知をしました。
「よろしうございます、たしかにお引受け致します」
「有難い。では、夜分になって、八幡まではそんなに遠くもないところだから、宵《よい》の口に行って戻るがよい。しかし、聞くところによるとその女はなかなか曰《いわ》くつきの女で、おまけに別嬪《べっぴん》さんだそうだから、甲府あたりから狼が二三匹ついているということだから、その辺はお前さんもよく気をつけてな」
と念を押しました。
 兵馬が委細を承って、やはり例の僧形《そうぎょう》で、恵林寺から向岳寺へ向って行ったのは、その日の宵の口であります。
 まもなく一挺の駕籠《かご》が向岳寺から出て、僧形の宇津木兵馬はその駕籠に附添うて寺の門を出て行くのを見ました。
 宇津木兵馬はその駕籠を守って、差出《さしで》の磯《いそ》にさしかかります。
 ここへ来た時分には、月が皎々《こうこう》と上っていました。
 差出の磯の亀甲橋《きっこうばし》というのはかなりに長い橋であります。下を流れるのは笛吹川であります。行手には亀甲岩が高く聳《そび》えて、その下は松原続きでありま
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