五度も六度も繰返すのだから真にたまらないのであります。
こうして六人の人間は、やりきれない土壇場《どたんば》に迫って、九死一生の思いをしているのに、ほかの連中は一向そのことを解することができませんでした。これはお師家《しけ》さんが何か深甚の意味を寓《ぐう》するために、手真似を以て公案を示しているのだと解する者もありました。
倶胝《ぐてい》和尚は指を竪《た》て、趙州《じょうしゅう》和尚は柏《かしわ》の樹を指さしたということだから、慢心和尚がああして幽霊のような手つきをして、自分の円い頭を辷らしているところに、三世十方《さんぜじっぽう》を坐断する活作略《かつさりゃく》があるのではなかろうか。これは一番、骨を折らずばなるまいと、汗水を流して本気になって、慢心和尚の妙な手つきをながめながら唸《うな》っている真面目な修業者もありました。
「オホホ」
ようやくのことで、慢心和尚はその妙な手つきをやめてしまいました。五人の亡者と一人の踏台はホッと息を吐《つ》きました。
「さあ、お前たち、これができるようになったら、裏口から忍んで出るには及ばない、大手を振って山門を突き抜けて通るがよいぞ」
と言いながら、和尚はその拳を固めて、あなやと見ているまにその拳を、ポカリと口の中へ入れて見せました。
これには一同、
「あっ!」
と言って驚きました。
八
昨晩、踏台の身代りになったのは、この慢心和尚であったことを、いま思い出しても遅いのであります。師家の頭を踏台にして迷い帰った亡者こそ、いい面《つら》の皮でありました。けれども、このことからして、亡者がお寺から迷い出すことがなくなってしまったのは、これ慢心和尚の道力《どうりき》と申すべきものでありましょう。
迷い出すことだけは、ピッタリととまったけれども、若い雲水たちの間に、その都度《つど》噂に上るのは、向岳寺の尼寺のことであります。向岳寺の尼寺へ、非常に美しい新尼《にいあま》が来たということを、誰がいつのまに見たのか聞いたのか、そのことが善き意味にも悪しき意味にも、話の種に上って来るのであります。
その向岳寺の新尼とは何者! それよりも先に、向岳寺の尼寺というものの存在を説くの必要がありましょう。
向岳寺の開山は、抜隊禅師《ばっすいぜんじ》、臨済宗《りんざいしゅう》のうちにも抜隊流の本山であります。そこの尼寺を開いたのは赤松入道円心の息女であるということであります。
播磨《はりま》の国赤松入道円心の息女、その姫の名は何というたかわからぬ。また一説には入道円心の娘ではなくその孫であると。ともかくもその当時において屈指の大名であった赤松家の息女が、尼となることを志したのは、よくよくの事情があったことであろうが、その事情もよくわかりません。
この寺へ訪ねて来て、抜隊禅師に出家の願いを申し出でたところが、その願いを聞いた禅師は、「出家は大丈夫のこと、女なんぞは思いも寄らぬ」と言いました。
けれどもこの姫の決心は強いものでありました。そこで花のように美しい面《かお》へ、無惨にも我れと焼鏝《やきごて》を当てて焼いてしまいました。その強い決心にめでて禅師も、ついに姫の尼となる望みを許したということであります。その赤松の息女の歌として伝えられるのに、
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面《おもて》をば恨みてぞ焼くしほの山
あまの煙と人はいふらん
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その赤松の姫君がこの尼寺の開基ということであります。それは南北時代のことであるから、かなり時が経っています。
今の庵主は五十|許《ばかり》の品のよい老女で、この老女がこの頃になって何か胸に思い余ることがありげに、しきりに心を苦しめているのが、そう思って見れば他目《よそめ》にも見えます。
老尼の住んでいる庵《いおり》は、昔から伝えられた名をそのままに燈外庵と呼ばれていました。珠数《じゅず》を爪繰《つまぐ》りながら老尼が燈外庵の庵を出ようとすると、若い尼が、
「御庵主様、いずれへおいであそばしまする」
と尋ねました。
「はい、わしはこれから、ちょっと恵林寺まで行って参りまする」
「左様でございますか、お供を致しましょうか」
「それには及びませぬ……しかし、曾光尼《そこうに》、あの、わしが留守の間をよく気をつけて給《たも》れ」
老尼は若い尼の耳に口をつけて何をか囁《ささや》くと、
「畏《かしこ》まりました、お大切《だいじ》に行っておいであそばしませ」
そのあと、この若い尼は池の傍に立って鯉を見ているけれども、心は鯉にあるのではなく、老庵主から頼まれた何者かの見守りに当るらしくありました。
暫らくした時に、池に向いた方の書院の障子がスラスラと開きました。その開いた間から見えるのは、やはり若い尼で、しかもこちらにい
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