でた五人の亡者は、また無事に寺へ舞い戻ったのであります。
 勿論《もちろん》、これは深更のことであり、また秘密の行いでありますから、極めて物静かに行われたのであります。外から来た亡者はもとより口を利《き》かず、中にいた踏台もまた一言半句を言わないで、あちらを向いて従容《しょうよう》として踏台の役目を果してしまったのであります。
 そうして彼等は無言のうちに寝室へと急ぎ、踏台もまた、いつか知らない間にどこへか片づいてしまいました。広い寺の境内は森閑として、静かなものになってしまいました。
 ここに寝室へ帰って来た五人の亡者が、ハッと度胆《どぎも》を抜かれた出来事が一つありました。今、ここで雷のような鼾《いびき》をかいて口をあいて寝ている雲水は、たしかにいま踏台になったはずの雲水なのであります。明晩は亡者となって迷い歩くべき権利の保留者であって、今晩は踏台となるべき義務者なのであります。たったいま踏台となった男が、自分たちより先廻りをして、もうここに鼾をかいて口をあいて寝ているということは、悪戯《いたずら》にしてもあまりに敏捷な悪戯でありました。ましてそれは悪戯ではなく、事実そこに今まで寝込んでいたものと見るよりほかはないのでありましたから、五人の亡者は面《かお》を見合せて、なんとなく気味の悪い思い入れであります。
 この踏台がここに寝込んでいたのなら、今の踏台は何者であったろうと、彼等は言わず語らず、その踏台を訝《いぶか》りました。
「おい愚蔵《ぐぞう》、起きろ」
と言って揺り起すと、
「うーん」
と言って眼を醒《さ》ますと共に、
「あっ、失敗《しま》った!」
と言って刎起《はねお》きました。自分が踏台となるべき義務を忘れて寝込んでしまった怠慢を、さすがに慚愧《ざんき》に堪えないものと見えて、その周章《あわ》て方は尋常ではありませんでした。しかし五人の亡者が踏台無しに帰ってみれば、やはり解《げ》せないのは同じことで、誰か自分に代って踏台になった者があると見なさなければなりません。
 もとより当番であるとは言いながら、踏台となることは歓迎されていないのであります。なるべくならば踏台となる義務だけを免《まぬか》れて、亡者となる権利だけを持っていたいというのが人情であります。人の亡者株を奪ってさえやりたいという世の中に、自分から進んで踏台を引受ける者があろうとは、それはあまりに殊勝な振舞と言わなければなりません。
 六人は、ここで面《かお》を見合せたが、そのとき思い出したのは、道理でその頭の辷《すべ》り方が少し変であったわいというくらいのところで、別にその殊勝なる踏台の何者であるかを考えてみるまでに至らずに、寝込んでしまいました。
 その翌日の定刻に、慢心和尚は講義をするといって、例の二三冊の振仮名《ふりがな》の書物を持ち出しましたけれど、その本を開かないで、円い頭をツルリと一撫でして、細い目でジロリと席を見渡しました。
「愚蔵《ぐぞう》、連十《れんじゅう》、英翁《えいおう》、甲論《こうろん》、乙伯《おつはく》、この頭をよく見てくれ」
と言い出したから、集まった雲水たちは今更のように慢心和尚の面を見ました。和尚の面も頭も、いつも見慣れている頭や面であるけれど、そう言われて見れば見るほど円いものであります。和尚はその円い頭を撫でながら、細い眼で一座の連中を見廻して、ニヤリニヤリと笑っているのであります。そうすると、
「あっ!」
 席の一隅に、思わず、あっ! と叫んで面色《かおいろ》を変えたものが六人ありました。この六人は、あっ! と言って面の色を変えて、我を忘れて和尚と同じように、自分たちの頭を撫でました。
「オホホ」
と慢心和尚は面白そうに笑いました。この和尚の、オホホという笑い方は、握拳《にぎりこぶし》を口の中へ入れるのと同じように、余人に真似のできない愛嬌がある。
「あっ!」と言って自分たちの頭を撫で廻している六人というのは、そのうちの五人は昨夜の亡者であって、他の一人はその亡者の踏台となるべき義務を怠った雲水でありました。
「オホホ」
 和尚は再び笑いました。六人の顔色はいよいよ土のようでありました。自分たちの円い頭を自暴《やけ》になって撫で廻しているけれど、その円さにおいて、とうてい慢心和尚に匹敵するものではありません。
 そうすると和尚は、妙な手つきをはじめてしまいました。それは両手を幽霊でも出たように上の方からぶらさげて、自分の円い頭の上へ持って来て、そこでツルリと辷《すべ》らしてみるのであります。それも一度でよせばよいのに、ゆっくりゆっくりやって、二度も三度も同じことを繰返して、
「オホホ」
と笑うのであります。やりきれないのは五人の亡者と一人の踏台でありました。もうたくさんだと思っているのに、意地のよくない慢心和尚は、
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