せないことに思いました。
「この背中にある女をそこへつれて行って、沈めにかけるのじゃ」
「沈めにかけるとは?」
「水の中へブクブクと沈めて、殺してしまうのだ、オホホ」
「エッ」
なんと下らないことを言う坊主ではありませんか。兵馬が驚くのも無理はありません。それを坊主は平気でオホホと笑い、
「何も驚くことはない、昔から例のあることじゃ、この石和川で禁断の殺生《せっしょう》したために、生きながら沈めにかけられた鵜飼《うかい》の話が謡《うたい》の中にもあるわい。殺生も悪いけれど邪淫《じゃいん》もよくない、女という奴、十悪と五障の身を持ちながら、あたら男を迷わして無限の魔道へ引張り込む、その罪は禁断の場所で鵜を使って雑魚《ざこ》を捕ったどころの罪ではない。一人の女を生かしておくとこの後、好い男が幾人|創物《きずもの》になるか知れたものではない、それ故に、女と見たら取捉《とっつか》まえて沈めにかけておくのがよろしい。お前さんに手伝ってもらって、この女を沈めにかけようというのはそれだ、なまじいの慈悲心を出して命乞いなどをしなさんなよ、オホホ」
「老和尚、またしても冗談《じょうだん》を」
「冗談ではないよ」
冗談にしても兵馬は、いい気持がしませんでした。ましてや駕籠に乗っている女の人が、それを聞いて、いい気持はしますまい。
九
けれどもこの和尚が、この駕籠に乗っている女を沈めにかける目的でないということは、川の方向は疾《と》うに通り越してしまって、それとは違った勝沼の町の方へ、サッサと歩いて行くことでわかります。
兵馬は、いよいよ呆《あき》れ返ってしまいました。その大力と洒落洒落《しゃあしゃあ》としたところは、どう見ても人間界の代物《しろもの》とは思われないのであります。呆れ返りながら兵馬は、金剛杖を突き鳴らして和尚のあとをついて行くうちに、ふと思い当ったことがありました。
ああ、この和尚こそ、まさにその人ではないかと思いました。その人に違いないと思いました。
その頃、知られた大力の坊主に物外《もつがい》和尚というのがありました。この和尚は拳骨の名人であります。拳を固めて物を打てば、その物がみな凹《へこ》むから、一名を拳骨和尚とつけられました。
この拳骨和尚がまだ若い時分に、越前の永平寺に安居《あんご》していました。その時にある夜、和尚はいたずらをしました。そのいたずらは鐘楼から釣鐘を下ろして、それを山門の外へ持って行って打捨《うっちゃ》ったのであります。翌《あく》る朝になって寺の坊さんたちが驚きました。誰がこんないたずらをしたか知らないけれども、とにかく、元の通りに鐘楼へ持って行ってかけねばならぬと、大勢して騒いでいるとなにくわぬ面《かお》をしてそこへ現われた拳骨和尚は、
「僅か一つの鐘を、そんなに大勢して騒いでも仕方がないではないか」
と言って、からからと笑いました。
「僅か一つと言うけれど、その一つが釣鐘だ、笑っていないで何とか知恵があったら知恵を貸せ」
「それはお安い御用よ、おれに茶飯を振舞いさえすれば、一人で片づけてやる」
この和尚の力のあることは坊さんたちがみんな聞いていたから、ともかく、茶飯を食わせてみようではないかということになって、充分に茶飯を振舞うと、和尚は軽々とその鐘を差し上げて、元の通り鐘楼の上へ持って来てかけてしまった。
その後、たびたびこの釣鐘が山門の外まで動き出すので、
「さては、あの物外《もつがい》めが、茶飯を食いたいばかりに悪戯《いたずら》をする」
一山の者が大笑いをしました。
この拳骨和尚が京都へ出た時分に、壬生《みぶ》の新撰組を訪ねて、近藤勇《こんどういさみ》を驚かした話はそのころ有名な話であります。
或る時、壬生の新撰組の屯《たむろ》の前へ、みすぼらしい坊主が、一蓋《いちがい》の檜木笠《ひのきがさ》を被って、手に鉄如意《てつにょい》を携えてやって来て、新撰組の浪士たちが武術を練っている道場を、武者窓から覗《のぞ》いていました。
出家とは言いながら、あまり無遠慮な覗き方であったから、忽《たちま》ち浪士たちに咎《とが》められてしまいました。
「我々の剣術を覗いて見るくらいでは、さだめてその心得があるのであろう、とにかく、道場の中へ入って一太刀合せてみろ」
強《し》いて和尚を、道場の中へ引張り込んでしまいました。
もとより名代《なだい》の壬生浪人のことですから、面白半分にこの坊主をいましめてくれようと、我勝ちに得物《えもの》を取って立ち向うのを、拳骨和尚は噪《さわ》げる色もなく、携えた鉄如意を振《ふる》って、瞬《またた》く間《ま》に数十人を叩き伏せてしまった。
この時、上座にいたのが、隊長の近藤勇でありました。この体《てい》を見て、
「これはこれは、驚き
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