言うことに不快を感じて座に堪えられないようなものもありました。駒井能登守は神尾にこう言われて、一時《いっとき》沈黙して眼をつぶりました。企《たく》んだな! とこう思って駒井能登守のために同情し、神尾の挙動を悪《にく》む者も少なくはありません。
確かにこれは駒井能登守が窮地に陥ったなと、予《かね》ての噂を聞いている者は、ひとごとながら見てはいられない気の毒の感じを起したものも少なくはありません。
この場合、能登守を救うのは、誰よりも先に太田筑前守の義務でなければならぬ。今まで神尾にこういうことを言わせて置いたことでさえが緩慢の至りであるのに、ここでなお黙っていて能登守の急を救わなければ、それは武士の情けを知らないのみならず、寧《むし》ろ神尾と腹を合せて、神尾をして充分に能登守を弾劾させようとする策略があると言われても申しわけがありません。それでも、やはり筑前守は知らぬまねして、神尾の一言一句にも干渉することをしませんでした。
一座は白け渡ってしまいました。その中には、眼の色を変えて能登守のために、神尾に飛びかかろうという権幕のものも見えました。また神尾の言うことを小気味よしとして、能登守が窮したのを内心快くながめている者もあるようです。
一時沈黙して眼を閉じていた駒井能登守は、やがて眼を開きました。
「神尾殿、近ごろ苦々しき噂をお聞き申す、しかしともかくそれは一大事。して左様な噂を立てられた人物というのは何者にや、してまたその人物が寵愛するという身分違いの女子《おなご》の素性《すじょう》というのはいかなる者にや、その辺を委《くわ》しくお聞き申したい、それらの者の姓名もお包みなく、これにてお明かし下されたい」
能登守の声は、少しばかり顫《ふる》えを帯びていたようであります。けれども終《しま》いはキッパリとして、神尾主膳の面を篤《とく》と見つめながら言葉も色も動きませんでした。
「それは申し上げぬが花と存じ申す。しかしながら、言い出した拙者の面目、軽々しく世上の根無《ねな》し言《ごと》を、この公けの席へ持ち出したとあっては迷惑、それ故、噂は噂として、その噂の中より拙者の見届けた真実だけを申し上げる。拙者がまだ当地へ参らぬ以前のこと、伊勢の国の大神宮へ参拝致した、その途中、かの間《あい》の山《やま》と申すところに、名物のお杉お玉と申すものがおって、三味を弾《ひ》い
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