て歌をうたい、客の投げ与うる銭を乞うていた、そのお杉お玉両女のうち、お玉と申すのがことのほか姿容《きりょう》がよい、それによく間の山節という歌をうたい申す、拙者も旅の徒然《つれづれ》に、右のお玉を旅宿に招《よ》んで歌を聞き申した、なるほど姿は鄙《ひな》に珍らしい、その歌も哀れに悲しい歌で涙を催した。しかるに近頃思いがけなくもこの甲州の土地へ来て、全く思いがけぬところでそのお玉という女子を見申した。それはただいま現在に、この甲府でさる重い役人の寵愛《ちょうあい》を受けているということを聞いて、いよいよ思いがけない思いを致した。おのおの方、そのお玉という者をいかなる素性の女子と思召す、姿こそ美しけれ、歌こそ上手なれ、それは彼地《かのち》にてほいと[#「ほいと」に傍点]というて人交りのならぬ身分の者、一夜泊りの旅人さえも容易に相手に致さぬ者を、知らぬ土地とはいえ、この甲府へ来て、あの出世、氏《うじ》のうして玉の輿《こし》とはよく言うたもの。ただし女は出世で済まそうとも、済まぬは我々旗本の身分、ほいと[#「ほいと」に傍点]賤人を寵愛して閨《ねや》の伽《とぎ》をさせるはすなわちほいと[#「ほいと」に傍点]賤人に落ちたも同然、もし我々同族のうちに、左様な人物がありとすれば、同席さえも汚《けが》れではござるまいか。左様なことはないことを望む、左様な人物はあってはならぬけれど、左様な人物あるがために士風を汚し、庶民の侮《あなどり》を買うような仕儀に到らば打捨てては置かれまい、よし一人の私情は忍び難くとも、流れ清き徳川の旗本の面目のために……」
主膳は今日を晴れとこんなことを絶叫しました。能登守は静粛《じっ》として聞いていたけれども、座中にはもう聞くに堪えない者が多くなって、雲行きが穏かでないのを、太田筑前守が、この時になってようやく調停がましき口を利き出しました。
今ごろになって調停がましい口を利き出すなぞは、かなりばかばかしいことであります。
気の毒なことに駒井能登守は、すっかり彼等が企みの罠《わな》にかかってしまいました。ここに至るまでには一から十まで企みに企んであった仕掛を、能登守は一つも覚《さと》ることなくしてこの場に身を置くようになったのは、返す返すも気の毒なことであります。
太田筑前守は程よくこの会議を切上げる挨拶を述べ、神尾主膳は勝ち誇った態度で揚々と座を立ち
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