に心配する者もありました。それを太田筑前守がなんとも言わないのは、いよいよ以て怪《け》しからんことです。両々共に騎虎の場合になって退引《のっぴき》ならないのでありますから、この時に、太田筑前守がなんとか言って調停しさえすれば、とにかく鶴の一声でこの場は納まるべきはずであります。それを無言《だま》っている筑前守の気が知れないのであります。
 筑前守が調停しないものを、それ以下の者が口を出すわけにはゆきません。それを神尾はいよいよ得意になって、
「列席のおのおの方にもさだめてお聞きづらいことでござろうけれど、さいぜんも申す通り、これを聞捨てに致し見捨てに致す時は、我々旗本の名誉が地に落つる、それ故、言い難きを忍んで申し上げる、おのおのにもお聞きづらきを忍んでお聞き下されたい。さて、御支配、駒井殿、ここでそれを申しても苦しうござりますまいか」
「勿論《もちろん》のこと、旗本の名誉が地に落つるというほどの重大事ならば、誰に遠慮も要らぬ、明白に承りたい」
「しからば申し上げる、近頃、この城中の重き役人にて、身分違いの女を愛する者があるやに専《もっぱ》らの噂」
「なんと申さるる」
「身分違いの女子を寵愛《ちょうあい》して、妻妾《さいしょう》の位に置くものがあるとやら」
「ははは、何事かと思えば家庭の一小事、そのようなことはこの席に持ち出すべきものでござるまい」
と言って駒井能登守は、笑ってその言いがかりを打消そうとしましたが、神尾主膳は冷笑を以てそれに酬《むく》いました。
「その人にとっては家庭の一小事か知らねど、武士の体面よりすれば、なかなか一小事ではござらぬ。いかにおのおの方に承りたい、たとえば旗本の身分の者が、仮りにほいと[#「ほいと」に傍点]賤人の女を取って妻妾となし、それにうつつを抜かして世の人に後ろ指ささるるようなことがあらば、それが家庭の一小事で済まされようや、また左様な人物が上に立つ時に、いかで下々《しもじも》の侮りがなくて済もうや、これが一大事でなければ、もはや武士とほいと[#「ほいと」に傍点]賤人との区別はない、士風の根本が崩れ申す」
 神尾主膳は、駒井能登守の面《おもて》を見つめました。「これでもか」という表情と冷笑と、それから勝ち誇ったような下劣な得意とを満面に漲《みなぎ》らせていました。
 列席の者は、神尾の言い分の道理あるやなきやの問題ではなく、その
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