、話し相手のお伽《とぎ》にするようなあんばいで、
「お前は、まだ知るまいが、あの駒井様という殿様のお家は、近いうちに潰《つぶ》れます、いま甲府では飛ぶ鳥を落すほどの御支配様だけれど、遠からず、お家をつぶされて、お預けになるか、または御切腹……これはまだ内密のことだから誰にも話してはなりませぬ……そうなるとこちらの殿様が、そのあとをついで御支配に御出世なさるようにきまっている、だからお前も、そのつもりで、うちの殿様のお面《かお》にかかるようなことをしてはなりませぬ、まあ、じっとして、もう暫らく見ておいで」
と言っているお絹は、何か企《たくら》むことがあって、やがてそれが成就《じょうじゅ》した時を楽しみにしているように見えます。その企みというのは、駒井家に、何か重大な変事が出来るだろうとの暗示で推察することができます。今いう通り、遠からずお家を取りつぶされて、その上に殿様がお預けになるか、または御切腹になるかというほどの大事、お松は、いよいよ胸がつぶれる思いで、この風聞の裏には権力を争う嫉《ねた》みや罠《わな》が幾つも幾つもあって、駒井の殿様はうまうまとその罠にかかって知らずにおいでなさるということを、お気の毒に思わないわけにはゆきませんでした。それもあるけれど、差当ってもっと痛切にお松は、外へ出て見なければならない必要が迫っております。ところがお師匠様なる人は相変らず、お松を話し相手のつもりにして、べんべんと話を繰り出し、座を立たせないのであります。
「男も女も身分の低い者を相手にしてはなりませぬ。駒井の殿様などは、あの通り男ぶりはお立派であるし、学問はおありなさるし、人品はお高いし、これから若年寄、御老中とどこまで御出世なさるやら知れないお方でいらっしゃるのに、あろうことか身分違いの女を御寵愛になったために、あたら一生を廃《すた》り物《もの》にしておしまいなされた、ほんとにお気の毒ともなんとも申し上げようがありませぬ。とは言え、これも身から出た錆《さび》で、誰をお怨み申そう様もない。お家には堂上方からおいでになった立派な奥方様を持ちながら、あんな女芸人上りの身分違いの女へお手をかけられたために、御身の上ばかりか、死んだ後までも、御先祖へまでも、恥を与えるようなことになってしまいました。それにつけてもお前なども、仕合せに堅くて結構だけれども、間違いのないうちに何とかし
前へ
次へ
全93ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング