ころへおいでなさい」
お絹はわざと、お松に猶予《ゆうよ》と口実を与えないかのように見えました。そうして退引《のっぴき》させずにお松を自分の居間へ連れて来てしまいました。お松はどうすることもできませんから、そこへ畏《かしこ》まって早くお師匠様が用事を言いつけて下さるようにと、腹の中でそれを焦《せ》き立てていましたけれど、なぜかお師匠様なる人は、いつもより悠長に構え込んでいるもののようであります。
「あの、御用向きは何でございましょう」
お松は堪《たま》り兼ねて催促してみました。その時に、お師匠様なる人はようやく、
「お前、あのお長屋へ行くというのは嘘だろう」
と微笑しながら、お松の面《かお》に疑いの眼を向けました。
「いいえ」
お松は見られて煙たいような心持です。
「お長屋へあの乳呑子《ちのみご》を見に行くと言っておいて、お前は時々、駒井様のお邸へ遊びに行くそうな」
「左様なことはござりませぬ」
この時もお松は、しどろもどろな打消しを試みましたけれど、その打消しは自分ながら、まずいものだと思わないわけにはゆきません。
「あってはなりませぬ、あのお邸へ遊びに行くことは、お前のためになりませぬ故、これからさしとめまする」
お絹の口から、キッパリとさしとめの言葉が出ました。温順なお松も、こんなにキッパリと言われてみると、はい、と言いきることはできませんでした。
「あのお邸には、わたしのお友達がおりまするものでございますから……」
「そのお友達がいけませぬ、そのお友達とお前が附合っていると、お前の身の上ばかりではない、わたしの身の上も、こちらの殿様のお身の上までも汚《けが》れるようなことが出来まする、それ故、今までのことはぜひもないが、これからはプッツリと縁を切って、途中で会っても口を利《き》かないようにしなければなりませぬ。わたしがこういってお前をさしとめるわけは、もう少したてば、きっとわかって参ります、なるほど危ないことであったと、お前はあとから気がついてくるでありましょう。わたしは意地悪くお前にこんなことを言うのではありませぬ」
その言いつけに対しても申し分はあるけれども、お松はそれをかれこれと気に留めていられないほど、外のことが気になるのであります。
それにも拘らず、お師匠様なる人は相変らず悠長に構えて、別に差当っての用事を頼むのでなく、意見を加えがてら
前へ
次へ
全93ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング