娘を寵愛して鼻毛を読まれているとは、さてさて思いがけない馬鹿殿様という噂も、折助どもやなにかの間に立っていることです。
 これは単に噂だけとしても容易な噂ではありません。お君と併せて能登守の生涯を葬るに足る噂です。
 この場合に、自分としてはどういう処置を取っていいのだか、ほとほと思案に余りました。それと忠告しなければこの後の御災難が思いやられるし、そうかと言って明《あか》らさまに忠告すれば、その愛情に水を差すようなものだし、またほかのことと違って、お前の素性《すじょう》はこれこれだろうと露出《むきだし》には女の口から言えないし、いっそお君様が自分から御辞退申せばよいのにと、お君の心をさえ情けなくも思ったりしました。
 けれども、その噂はいよいよ密々に拡がるばかりで、ことに神尾家の折助などはこのことを、いちばん恰好《かっこう》な笑い草にして、おおっぴらで嘲弄していました。お松はそれを聞くと、どうしても本人に忠告をしなければならないことだと思いました。たとえ自分は悪《にく》まれ者になっても、このままで聞き捨てにはならないから、今晩は、お君様を尋ねてそのことを言ってしまおうと思って、出かけようとする時に、例のムク犬が庭先へ尋ねて来ました。
 早くも眼にとまったのは、ムク犬の首に結《ゆわ》いつけられた紙片《かみきれ》であります。
 お松は心得てその紙片を取って見ると、それに「静馬《しずま》」と記してありました。
 それだからお松はハッとしました。兵馬さんが訪ねて来ていると思うと、気がソワソワとして落着かなくなりました。これから駒井家を訪れようということなども忘れてしまいました。
 急いでこのムク犬の導いて行くところへ行かなければならない。お松はソコソコに身仕度をして、履物《はきもの》を突っかけようとする時に、
「お松」
と言って奥の方から出て来たのは、お絹でありました。
「はい」
「お前はどこへ行きます」
「ちょっと、あのお長屋まで……」
 お松は、悪いところへお師匠様が出て来てくれたと思わないわけにはゆきません。
「少しお待ち、お前に頼みたいことがあるから」
「はい……」
 お松にとっては、いよいよ悪い機会でありましたから、その返事もいつものように歯切れよくはゆきませんでした。それでもと言って、出かけて行く口実にも窮してしまいました。
「まあ、こっちへおいで、わたしのと
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