く世話をさせるにはさせます。そのほかの時は、神尾の屋敷でお松に愛されることによって、ムク犬はお君に失い、米友に行かれた空虚を補うことができるらしくありました。
お米倉の構外《かまえそと》まで来た時に、兵馬はムク犬を顧みてこう言いました。
「ムク、お前は賢い犬だ、神尾の屋敷から、お松の便りをしてくれたのはお前だそうだ、今日は、わしからお松の許《もと》まで、お前に使を頼む」
兵馬は、紙と矢立を取り出してサラサラと一筆|認《したた》め、それを紐《ひも》でムク犬の首に結《ゆわ》いつけました。
ムクは確かに神尾の屋敷の中へ入って行ったけれども、容易にその返事を齎《もたら》しませんでした。兵馬は長くそこに立っていることがけねんに堪えられない。人目に触れないように、行きつ戻りつしていたけれど、ムクは容易に戻って来ませんのです。兵馬はここに人を待つ身となりました。
待つ身になってみると、来る人が一層恋しくなるものか知ら。兵馬は早くお松に会いたい会いたいという心が、今までになかったほど胸に響きます。
お松から愛せらるることの多かった兵馬。今はお松を慕う心が、我ながら怪しいほどに切《せつ》になってゆくようです。
お松の身になってみると、この頃は立場に迷う姿であります。立場に迷うというだけならば迷ったなりで、ともかく、その日を過ごして行けるけれども、居ても立ってもいられないようなことばかり、その周囲に降って湧きました。
第一は兵馬に去られたことであります。駒井家を立退くということは早晩そうあらねばならぬことだけれども、あまりに急なことでありました。ことにその行先の知れないということが、お松にとっては、どのくらい残念であり心細くあるか知れません。それと同時に、降って湧いたような気の毒な風聞が、今のいちばん親しい友達であるお君の身の上にかかって来たことであります。
その風聞というのは、このごろ士人一般の間に取沙汰せられている、お松の親愛なお君の方が、ほいと[#「ほいと」に傍点]の娘だという噂であります。あれは人交《ひとまじわ》りのできぬ素性の者であるに拘らず、能登守を欺《あざむ》いて、その寵愛《ちょうあい》をほしいままにしている汚《けが》らわしい女、横着《おうちゃく》な女という評判が立っていることであります。
それと共に、能登守ともあろう者が、ほいと[#「ほいと」に傍点]の
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