ずに邸を去りました。思い切ってその諫言をしないで邸を去った腑甲斐なさを、ここでも悔む心になりました。
 あれほどの人でも女に溺れると、目がなくなるものかと情けなくもなります。溺れる心はないが、今の自分もやはりお松という女に、苟且《かりそめ》ながら引かれて来たことを思うと、そこにも情けないものがあるようです。恰《あたか》もよし、この時、兵馬の空想を破るものが足許から起って来ました。
 恰もよし、とは言うけれども、実際それは善かったか悪かったかは疑問であります。
 兵馬の足許に現われた黒い物は、ムク犬であります。
「ムク」
 兵馬は低い声でその名を呼んで頭を撫《な》でました。ムクは尾を振って喜びました。
 兵馬とムク犬との間柄の、よく熟していることは、久しい前からのことでありました。お君を理解し、お松を理解し、また米友を理解するムク犬が、いつまでも兵馬に対して敵意を持っていようはずがありません。兵馬はこの犬を見て、このさい最もよき使者の役目をつとめるのは、この犬のほかにないと喜びました。
「ムク、こっちへ来い」
 兵馬は素早く歩き出しました。その旨《むね》を心得てかムク犬は、兵馬のあとを跟《つ》いて行きました。
 憐れむべきムク犬は、いま不遇の地位にいるのであります。間《あい》の山《やま》以来の主人は、すでに他に愛せらるべき人を得て、以前ほどにこの犬の面倒を見てやることができません。
 代ってこの犬を養うべき女たちは、元の主人ほどに親身を以て世話をすることはできないのであります。時としては叱り罵ることさえあり、時としては自分たちのした粗忽《そこつ》を、犬にかずけ[#「かずけ」に傍点]て責めをのがれようとすることさえあるのであります。
 さしもに黒い毛を、以前はお君が絶えず精出して洗ってやったから、漆《うるし》のように光沢《つや》がありました。このごろは、手を下《くだ》して滅多に洗ってやる者がないから、汚れた時は汚れたままでいることがあります。食事でさえも、その時その時に忘れられて与えられないことがあるのであり、ムクは巨大の犬であるだけに、食物の分量もまた多量を要する。食を細くされてから後は、餓えを感ずることがしばしばあって、催促がましく台所へ現われる時は、心なき女どもはそれを侮《あなど》りうるさがることもあるのであります。それでもお君の眼に触れた時は、女中に言いつけてよ
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