主膳の邸の方へ、心覚えの経文を誦《ず》しながら歩いて行きました。
 神尾の門前を二度三度通ってみました。またその邸の周囲を、さりげなく廻ってみました。しかしながら、それだけではお松の姿を見ることもできず、それに合図をする便りもありませんでした。
 前にも一度、兵馬はこの家を覘《ねろ》うて、それがために御金蔵破りの嫌疑を蒙《こうむ》って、獄中に繋がれた苦い経験を思い出さないわけにはゆきません。一度は神尾の屋敷のまわりを廻ってみたけれども、この姿で二度と廻ることは危ない、と言って、声を出して呼んでみることは無論できない。わざと経文を声高く誦《ず》してみたところで、それは、またあらぬ人の怪しみを買うばかりで、お松の耳に届こうわけもないのであります。ぜひなく兵馬は、神尾の屋敷から引返して、甲府の市中を当もなく歩きます。忍ぶ身になってみると、無性《むしょう》に懐かしくなって、お松に会いたくてたまらなくなりました。
 それをするのに最も便宜な方法は、駒井能登守の屋敷を訪ねることであります。能登守の邸を訪ねてみれば、万事を心得ているお君が、言わずともよく計らってくれないはずがない。兵馬はそれを知りつつも、どうも能登守の屋敷へは行けないのであります。行って行けないことはないけれども、今は行くべき必要が無いはずなのであります。
 それで兵馬は空《むな》しく経文を誦しつつ、徒《いたず》らに甲府の町を歩きました。歩き歩いているうちに、いつしか駒井能登守の屋敷の後ろへ来てしまったことに気がつきました。
 やや歩いて行って振返った時に、駒井の屋敷の長屋塀のある門前から左の方に、高く二階家の燈《ともしび》の光の射すのを遠目にながめました。そこは自分が獄中から出て病を養うたところである。
 それから右の方へ廻って後ろになって能登守の居間があり、お君の方《かた》のお部屋がある。お君という女はもと賤《いや》しい歌唄いの女、それと知ってか知らずにか、能登守ほどの人が寵愛《ちょうあい》していることを、兵馬はその時分も異様に思いました。
 能登守は無論お君の素性《すじょう》を知らないのだろう。知らないとすれば、それが現われた時はどうなるだろう。これは能登守の生涯の浮沈に関する大問題に相違ないのであります。
 兵馬はその時分に、能登守のために諫言《かんげん》をしようかとも思いました。
 けれどもその機会を得
前へ 次へ
全93ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング