て上げたいと、わたしは常々それを思っています。それ故、今の殿様のお側へはなるたけお前を上げないようにしてあるけれども、いつまでもそうしておられるものではない、わたしもいろいろとお前の身の上を考えているうちに、あの御支配の上席の太田筑前守様の奥方が、お前をお側に欲しいとこうおっしゃるから、わたしはどうしようか、今お前を呼んだのは、そのことを相談してみたいから……」
ようやくここへ来て、お松を呼び寄せた相談の緒《いとぐち》が開かれたのでありました。お松はそれどころではないのであります。お松がソワソワとするのを、これは駒井の邸へ密《そっ》と行きたいからであろうと見て取ったお絹は、わざと話を長くして、意見のような、教誡のような、お為ごかしのようなことを言って、お松に席を立たせまいとするのであります。
お松は針の莚《むしろ》に坐っているようにして、それを聞かされているけれども、てんで耳へは入りません。ようやくお絹の相談というのが済んで、お松は解放されました。お辞儀をソコソコにして帰って見ると、ムク犬はまだ待っていました。そのムクを先に立てて、お松は裏門から走り出でて見ました。けれどもその時分には、もう宇津木兵馬の姿をいずれのところでも見ることができないで、町の門々や辻々に集まった多くの人が、
「また出た、また出た」
と噪《さわ》いで、お城の方をながめているのを見ました。
お松はその人出のなかを、あれかこれかと尋ね廻りましたけれど、とうとう兵馬の姿を発見することが出来ないので、失望し、ムクを先に立てて、今も行ってならぬと差止められた駒井能登守の邸の方へ、知らず知らず足が向いて行きました。
その間も例の人出は、
「それ出た、また出た」
とお城の方をながめながら罵《ののし》り噪いでいます。これは今宵に限ったことではない、町の人はこの二三日の晩のある一定の時刻になると、こうして門並《かどなみ》に立って、
「それ出た、それ出た」
というのであります。
何が出たのかと言えば、真紅《まっか》な提灯《ちょうちん》がたった一つ、お城の天守の屋根の天辺《てっぺん》でクルクル廻っているのであります。大方、提灯だろうと思われるけれども、それとも天狗様の玉子かも知れない。もし提灯だとすれば、それを持って、あの高いところまで上る人がなければならぬ。そんなことは誰にだって出来るはずではないのであ
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