す。
お銀様がここへ来るずっと前から、たった一つ、こうしてここに置かれてあったのだということも、いかに逞《たくま》しい邪推を以て見てもそれは疑えないのであります。
お銀様は、悪女の文字から来る不快と悪感《おかん》とをこらえて、そのことは竜之助に向って一言も言いません。せっかくの椿の花を拾い上げて、わざと後向きに花立へ差して、仏壇の扉を締めてしまいました。
その晩のこと、お銀様は竜之助を慰めるために話の種の一つとして、ふと、このことを言い出す気になって、
「そこにお仏壇がありまする、その中に、妙な戒名を書いたお位牌がたった一つだけ入れてありました、何のつもりで、あんな戒名をつけたのだか、わたしにはどうしてもわかりませぬ」
「何という戒名」
「悪女大姉というのでございます」
「悪女大姉? どういう文字が書いてあります」
「悪というのは善悪の悪でございます、女というのは女という字」
「なるほど、悪女大姉、それは妙な戒名じゃ」
「ほんとにいやな戒名ではござんせぬか」
「戒名には、つとめて有難がりそうな文字をつけるのに」
「それが悪女とはどうでございます、死んだ後まで、悪女と位牌に書かれる女は、よほどの悪いことをしたのでございましょう」
「誰かの悪戯《いたずら》だろう」
「いいえ、そうではございませぬ、立派な位牌にその通り記《しる》してあるのでございます」
「はて」
「もしわが子ならば親が無言《だま》ってはおりますまい、妻ならば夫たる人が、悪女と戒名をつけられて無言《だま》っていよう道理がございませぬ」
「どうも解《げ》せぬ、読み違えではないか」
「いいえ」
「その悪女の悪という字が、たとえば慈とか悲とかいう文字が、墨のかげんでそう見えるのではないか」
「そうではございませぬ」
「慈女大姉、悲女大姉、その辺ならばありそうな戒名だが、好んで悪女と附ける者はなかろう、それは御身の読み違えに相違ない」
「いいえ、確かに」
お銀様は、確かに自分の眼の間違いでないことを主張したけれども、そう言われてみると、懸念《けねん》が起りました。
「そんならば、もう一度見て参りましょう」
お銀様はそれを曖昧《あいまい》に済ますことができない性質《たち》です。立って仏壇をあけて見ましたけれども、仏壇の中は暗くありました。
「それごらんあそばせ、悪女」
取り出してよいものか悪いものか懸念を
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