こう呼ばれてこう答えることを喜んでいました。自分から願うてそのように呼ばれて、このように答えることを望んでいるらしい。
 けれども竜之助は呼び放しで、あとを何の用とも言いませんでした。ただ名を呼んでみて、呼んでしまっては、もうそのことを忘れてしまっているようでしたが、実はそうではありません。
「あなた」
 お銀様は椿の花を面《かお》に当てて、その二つの葉の間から竜之助の面をながめました。
「この花をどうしましょう、わたしの一番好きな椿の花」
 お銀様はクルクルと、椿の花を指先で操《あやつ》りました。
 竜之助は返事をしません。けれどもお銀様はそれで満足しました。
「生けておきたいけれども、何もございませんもの」
 お銀様は、わざとらしくその花を持ち扱って、机の上や室の隅などを見廻しました。この一間に仏壇があることは、お銀様も前から知っていました。けれども、この花は仏に捧げようと思って摘んで来た花ではありません。ところが、持余《もてあま》し気味になってみると、そこがこの花の自然の納まり場所であるらしい。
 お銀様はその一花二葉の椿を持って、仏壇の扉をあけた時に、まだそんなに古くはない白木の位牌《いはい》がたった一つだけ、薄暗いところに安置されてあるのを見ました。位牌が古くないだけにその文字も、骨を折らずに読むことができます。
「悪女大姉《あくじょだいし》」
と読んでお銀様は、手に持っていた椿の花を取落しました。
「悪女大姉」の戒名《かいみょう》は、尋常の戒名ではありません。
 不貞の女をもなお且つ貞女にし、不孝の子をもなお孝子として、彼方《あなた》の世界へ送るのが人情でもあり、回向《えこう》でもあるべきに、これはあまりに執念《しゅうねん》の残る戒名であります。
 何の怨みあってその近親の人が、この位牌を祀《まつ》るのだかその気が知れないと思いました。また何の意趣があって、引導の坊さんがこの戒名を択《えら》んだのだか、その気も知れないと思いました。
 それがお銀様にとっては、単に文字の示す悪い意味の不快な感じだけでは留まりませんでした。悪女! お銀様はむらむらとして、ここにまで自分を見せつけられる憤《いきどお》りから忍ぶことができないもののようです。けれども、この位牌はお銀様に見せつけるために置かれたものでないことは、その木の肌を見ても、墨の色を見てもわかることでありま
前へ 次へ
全93ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング