ところで、今、一場の大格闘が開かれているところであります。月が明るいから、こっちから、絵のようにその光景を見て取ることができます。それはいま奪って行った駕籠を真中にして、それを奪って行った悪者どもが、入り乱れて組み合っているのでありました。しかもこの悪者どもが相手にしているのは、たった一人の人間に過ぎないようであります。一人の人間を相手にして、寄って集《たか》って組んずほぐれつしているらしいが、その一人の人間が非常に豪傑であるらしい。
 その一人の豪傑は、遠目で見たところではなんらの武器を持っていないらしい。徒手空拳で、つまり拳《こぶし》を振り廻して、片っぱしから悪者どもを撲《なぐ》り散らしているものらしいのです。兵馬は天の助けと喜びました。偶然、通りかかった旅の豪傑が、悪者どもの狼藉《ろうぜき》を見咎《みとが》めて、それを遮《さえぎ》ってくれたものだろうと喜び勇んで来て見ると、その豪傑の強いこと。遠くで見た通り、拳を固めて悪者どもの頭を、ポカリポカリと撲っているのであります。
 一つ撲られたその痛さがよほど徹《こた》えると見えて、飛びついて来たり、組みついて来たりする奴等が、一つ撲られると、二三間も向うへケシ飛ばされて起き上れない有様であります。
 兵馬はその勇力にも驚きましたけれども、同時に、それが自分と同じことに僧形《そうぎょう》をしている人物であると見て、なお不思議に思いながら近づいて見ると意外、それは頭と顔の円いので見紛《みまご》うべくもあらぬ師家の慢心和尚であろうとは。
「老和尚」
と言って兵馬は近づいて呼びました。
「宇津木どん」
 慢心和尚はその時、悪者どもを片っぱしから撲りつけてしまって、駕籠の前に立って、抜からぬ面《かお》で兵馬を待っていました。
「どうしてここへ」
「お前さんに頼みは頼んだが、あぶないと思うから、あとを跟《つ》けて来たのさ、跟いて来て見るとこの始末さ、オホホ」
「すんでのことに、この駕籠を奪われるところでした」
「危ないところ、オホホ」
 和尚は例の愛嬌のある笑い方をしました。この和尚の面の円いことと口の大きいことと、その口の中へ拳が出入りするということはかなり驚かされていたけれど、その拳の力がこれほど強かろうとは、今まで知らなかったことであり、聞きもしなかったことであります。なんとも見当のつかない使者の役目を吩附《いいつ》けて
前へ 次へ
全93ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング