滞《とどこお》らぬようにしました。
この二仏二神のおかげで、甲府の土地が出来たのだというのが古来の伝説であります。最初に言い出した地蔵様は甲府の東光寺にある稲積《いなづみ》地蔵で、次に山を蹴破ったのが蹴裂《けさく》明神で、河の瀬を作った不動様が瀬立《せだち》不動で、山を切り穴を開いた神様が、すなわちこの穴切明神であるというこの縁起《えんぎ》も、お銀様はよく知っているのでありました。ここへ来て夜の更けたことを知ったお銀様は、はじめて自分の無謀であったことと、大胆に過ぎたことを省《かえり》みる心持になりました。前に来た時には、日中であったに拘《かかわ》らず、しかもお城の真下であったに拘らず、悪い折助のために酷い目に遭ったことを思い出して、ついにこの夜更けにこの淋しい道を、どうして自分がここまで来て、無事にここに立っていられるのかをさえ思い出されて、ぞっと怖ろしさに身をふるわすと、例の物悲しい、いじらしい子供の泣き声であります。
なんだか知らないけれども、その泣き声が自分のあとを慕うて来るもののようでありました。自分を慕うて幼な子があとを追っかけて来るもののように、お銀様には思われてなりません。
お銀様はその子供の泣き声が気になって仕方がありません。
穴切明神を後ろにして武家屋敷の方へ向って行きますと、そこで絶え入るような子供の泣き声が足許から聞えるのでありました。
「おや、棄児《すてご》か知ら」
お銀様は、まさに近い所の路傍の闇に子供が一人、地面《じべた》へ抛《ほう》り出されて泣いているのを認めました。
「かわいそうに棄児……」
お銀様はその子供の傍へ駈け寄りました。棄児としてもこれはあまり慈悲のない棄児でありました。籠へ入れてあるでもなければ、玩具《おもちゃ》一つ持たせておくでもありません。裸体《はだか》にしないだけがお情けで、ただ道の傍《はた》へ抛り出されたままの棄児でありました。
「おお、こんなことをしておけば凍死《こごえし》んでしまう、なんという無慈悲なこと、なんという情けない親」
お銀様は直ぐにその子を抱き上げました。咽《むせ》び入《い》るようなこの子は抱き上げられて、いじらしくもお銀様の胸へぴったりと面《かお》を寄せて、その乳を求めながら、欷歔《なきじゃ》くっているのであります。
「お乳が無くて悪かったね、いい坊やだから泣いてはいけません」
ようやくかたことを言えるくらいの男の子。お銀様はその子を固く抱いて頬ずりをしました。
その時に、お銀様の鼻に触れたのは紛《ぷん》として腥《なまぐ》さい、いやないやな臭いであります。お銀様はその臭いが何の臭いだか知りませんでしたけれど、むっと咽《む》せかえるようになって、我知らず二足三足歩いて見ると、そこの地上にまた一つ、物の影があるのであります。
「人が倒れている」
お銀様はまさしくそこに倒れている人を見ました。その人が尋常に倒れているものでないことを直ぐに感づきました。怪我で倒れたのでもなし、病気で倒れたのでもないことに気がつきました。
「ああ、どうしよう、人が斬られている、殺されている!」
天地が遽《にわ》かに暗くなって――暗いのは最初からのことだが、この時は腹の中まで暗くなりました。前後左右四方上下から、真黒な大鉄壁を以て、ひたひたと押えつけられるような心持になって眼がくらくらと眩《くら》んでしまいました。
けれども胸に抱いた子は、いよいよ固く抱いておりました。
幼な子を抱いて闇の中に立っていたお銀様の肩を、後ろから軽く叩いたものがあります。
「もし」
お銀様は愕然《がくぜん》として我にかえりました。我にかえると共に慄え上りました。
「どなた」
お銀様の歯の根が合いませんでした。そこに頭巾《ずきん》を被《かぶ》って袴《はかま》を穿《は》いて立っているのは武士の姿であります。
「驚き召さるな、拙者は通りかかりの者……してそなたは?」
存外、物優《ものやさ》しい声でありました。
「わたくしも通りかかりの……」
お銀様は辛《かろ》うじてこう言いました。
「この場の有様は、こりゃ………」
武士もまた、さすがにこの場の無惨《むざん》な有様に、悸《ぎょっ》として突立ったきりでありました。
「そこに誰か斬られているのでござりまする、そうしてこの子供がここに投げ出されておりました」
「また殺《や》られたか」
「どう致しましょう」
この時、武士はさのみ狼狽《ろうばい》しないで、
「もしや、そなたは有野村の藤原家の御息女ではござらぬか」
と聞かれてお銀様は狼狽しました。
「左様におっしゃる、あなた様は?」
「拙者は神尾主膳でござる」
「神尾主膳様?」
「伊太夫殿の御息女に違いないか」
「はい」
お銀様は神尾主膳の名を聞いて一時に恥かしくなりました。主膳はお銀様の父の許《もと》を訪ねたこともあって、お銀様もその面影を知らないではありません。その人にここで会おうとは思いませんでした。会ってみれば、お銀様としても、さすがに恥かしい思いがしなければならないはずです。
「お銀どの……どうしてまたこの夜更けに、こんなところにお一人で……いや、それを承っていることも面倒じゃ、これはこのごろ流行《はや》りものの辻斬、拙者も今宵は忍びの道、かかわり合ってはおられぬ、この場はこのままにして立退き申そう、そなた様はいずれへお越しじゃ」
「はい、わたくしは」
「ともかくも、拙者が屋敷まで見えられるように」
「有難う存じまする」
「見廻りの者が来ないうちに」
「それでもこの子が……」
「さあ、その子は……」
二人がその子の始末に当惑している時に、火の番の拍子木が聞えました。
三
破牢のあったというその当夜から、ひとり胸を痛めているのはお松であります。
その破牢者のうちに宇津木兵馬があったということは、今や隠れもなき事実であります。けれどもその行方《ゆくえ》が今以てわからぬというのは、今宵もまんじりともしないほどお松の心を苦しめていました。お松の耳に入ったいろいろの噂は、破牢者のうちの無宿者の一隊は、どうやら山を越えて秩父の方へ逃げたものと、信濃路へ向ったものとがあるらしいということのほかに、その主謀者と見做《みな》されるものは、どうしてもこの市中に潜伏していなければならないということでありました。主謀者とは誰ぞ、宇津木兵馬はその人ではあるまいけれど、その人に荷担《かたん》した時はその人と責任を共にする人であるとは、お松も想像しないわけにはゆきません。
してみれば、兵馬さんはこの甲府の市中のいずれかに隠れている。どこに隠れているだろう。果して隠れ了《おお》せてこの地を逃げ延びることができればそれは結構であるけれど、もうその評判がお松の耳にまで聞えるようになっては、この狭い天地でさえも危ない――とお松はそれを考えると、剣《つるぎ》の刃を渡るようにハラハラしました。
「お松ちゃん、お松ちゃん」
窓の戸をトントンと叩いて、わが名を忍びやかに呼ぶ者のあるのは覚えのある声で、お松にとっては必ずしも寝耳に水ではありません。
「はい」
窓の戸を開きますと、そこから首を出したのは七兵衛でありました。
「おじ様」
「お松、ちょっと耳を貸してくれ」
七兵衛の来るのは、いつもあわただしいものであります。いつなんどき来て、いつなんどき帰るのだかわかりませんでした。こうして夜中に合図をして不意に訪《おとな》うことには、少なくともお松は慣れているのであります。
「兵馬さんはいるよ。うむ、うむ、この甲府の中に、それはな、思いがけないところへ逃げ込んでいるから、まあ今のところ無事だ。今のところは無事だけれども、その大将がこれからどうするつもりかそれは知れない、いったん隠して置いて養生をさせて、それから改めて突き出すつもりなんだか、それとも隠し了《おお》せて逃がすつもりなのか、そこのところがわからねえ」
七兵衛がお松の耳に口を当ててささやくと、
「まあ、兵馬さんがこの甲府の町の中にいらっしゃる? それはどこでございます、おじさん」
「それはちっと思いがけねえところなんだ。俺はな、そこから兵馬さんを盗み出して、無事なところへお逃がし申したいと思ってるんだが、そこの家には犬がいて……意気地のねえような話だが、犬がいるために俺はその邸へ近寄れねえのだ」
「おじさん、それはどこなんでございますよ、おじさんが行けなければ、わたしがなんとか工夫してみますから」
「それはお前、二の廓《くるわ》のお役宅で、駒井能登守様のお邸だ」
「あの御支配の殿様の?」
「そうだ、たしかに兵馬さんは、あのお邸に隠れている、そりゃ役人たちにもまだ目が届かねえ、外からそれを見届けたのは俺ひとりだ」
「まあ、あの御支配の駒井能登守様のお邸に兵馬さんが……」
お松は寧《むし》ろ呆《あき》れました。七兵衛が、まだ何をか言おうとした時に、裏の木戸口がギーッと言いました。人があってあけたもののようです。このとき早く七兵衛は、窓から何物をかお松の部屋へ投げ込んだまま闇の中へ姿を隠してしまいました。
暗いところから入って来たのは意外にも、主人の神尾主膳でありました。
「お松、まだ寝ないのか」
「はい、まだ」
お松は窓の戸を締めきらないうちに、主人から言葉をかけられてドギマギして、
「今、誰か来ていたようだが」
お松はハッとしました。
「いいえ、誰も」
この返事も大へん慌《あわ》てた返事でしたけれども、主膳は深く気にしないで、そのまま行ってしまいました。お松はホッと息をついて窓を締めて座につきました。
駒井能登守の名はお松もよく知っています。名を知っているのみならず、郡内の道中で、親しくお近づきになっています。けれどもその人は甲州勤番の支配である。破牢の兵馬を糾弾《きゅうだん》すべき地位にある人で、それを擁護《ようご》すべき立場の人でないということはお松にもよくわかるはずです。それ故にせっかく兵馬の在所《ありか》を知ったものの、これから先がまだ心配でたまりません。
ただ一つ心恃《こころだの》みなのは、能登守という殿様が、うちの殿様と違って、物事に思いやりのあるらしい殿様であることのみでありました。思いやりに縋《すが》ったならばと、お松はそこにいくらかの気休めを感じて、あれよこれよと考えはじめました。
そのうちに、忘れていたのは、さきほど七兵衛が窓から投げ込んで行った品物であります。油紙に包んで凧糸《たこいと》で絡《から》げてある包みを解いて見ると、五寸ぐらいに切った一本の竹筒が現われました。その竹筒には何かいっぱいに詰め込まれてあるらしい重味が、なんとなく無気味に思われます。それでやはり凧糸で把手《とって》をこしらえて、提《さ》げるようにしてありましたところへ、懸想文《けそうぶみ》のような結状《むすびぶみ》が括《くく》りつけてありました。
お松はそれを提げてみて、思わず微笑しないわけにはゆきませんでした。その竹筒の一端に「十八文」という烙印《やきいん》が捺《お》してあったからです。
それでお松はすっかり合点がゆきました。「十八文」が一切を了解させてくれたのみならず、いろいろに胸を痛めたり心を苦しめたりしていたお松を、腹を抱えさせるほどに笑わせました。
あの先生はおかしい先生であると思って、お松は思出し笑いをしながらも、その親切を嬉しく思いました。これは兵馬さんのための薬である。兵馬さんが病気であるために、おじさんが道庵先生に調合してもらって、ワザワザ持参したものと思って見れば、有難くて、その竹筒を推《お》しいただかないわけにはゆきません。
してみれば、これを兵馬さんの許《もと》まで届ける責任は、わたしに在るとお松は勇み立ちました。別に厳重な封じもないのだから、その懸想文のような結状を取って開いて見ると、それは道庵先生一流の処方箋でありました。
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「もろこし我朝に、もろもろの医者達の出し申さるる薬礼の礼にもあらず……ただ病気全快の節は十八文と申して、滞りなく支払するぞと
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