りと行きなさい、父はもうお前のすることについては何も言わぬ、お前もこれから父の世話にならぬ覚悟でいなさい」
と言い捨てて、座を蹴立てるようにして立去りました。
お銀様は父の立去る後ろ影を、凄《すご》い面《かお》をして睨めていましたが、
「ええ、ようございますとも、出て参りますとも、幸内をつれてどこへでも、わたしは行ってしまいます、お父様のお世話にはなりませぬ、死んでも藤原の家の者のお世話にはなりませぬ」
お銀様は歯噛《はが》みをしました。その有様は、父に対して言い過ぎたという後悔が寸分も見えないで、なお一層の反抗心が募ってゆくように見えます。
「幸内や」
お銀様は、幸内の寝ている枕許へ膝行《いざ》り寄って来ました。
「いま聞いた通り、わたしはここの家にはいないから、お前、少しのあいだ待っていておくれ、わたしはお前をつれて行くところを探して来るから待っておいで、今夜のうちにもお前をつれて出て行ってしまいたいから、わたしはこれから心当りを聞きに出かけます、お父様にああ言われてみれば、わたしはもう一刻もこの家にはいられない、お前もいられまい、誰がなんと言っても、わたしはお前を連れて出て行ってしまいます」
お銀様は、やはり歯噛みをしながらこう言って幸内の寝面《ねがお》をのぞいていましたが、すぐに立って箪笥《たんす》をあけました。それで、あわただしい身ごしらえをはじめたところを見ると、この娘はほんとうにたった今この家を出かけるつもりでしょう。帯の間へは例の通り懐剣を挟みました。そうして小抽斗《こひきだし》から幾つかの小判の包みを取り出して、無雑作に懐中へ入れました。それからまた例の頭巾《ずきん》を被《かぶ》りました。
「いいかえ、わたしはこれから甲府へ行って、お前を引取るような家を探して直ぐにまた迎えに来るから、それまで一人で待っておいで。ナニ、お父様がかまってくれなくても、二年や三年お前と一緒に暮らして行くだけのお金は、わたしが持っているから心配することはない」
お銀様の手足が慄《ふる》えているために、懐中へ入れた小判の包みをバタバタと取落して、それをまた懐中へ拾い込み、それがまた懐中からこぼれるのを、お銀様は慄える手先で拾って、狂人が物を口走るように独言《ひとりごと》を言いました。
「まあ、ずいぶんお前|月代《さかやき》が生えているね。もしよそへ行く時に、それではあんまりだから、わたしが月代を剃って上げたいけれど、今はそんなことをしてはいられない。甲府へ行ったら、わたしは人を頼んでお前を迎えによこすから、わたしも附いて来るから、その時になってお父様がなんと言ったって、わたしは帰りゃしない、お前も帰さない。この家には、わたしがいない方がいいのだから、わたしがいなくなればみんな手を拍《う》って喜ぶのだから、わたしがいないので、いなくなるので、それだから、わたしは……」
お銀様は、畳の上へこぼした小判の包みが手に触《さわ》らないのであります。やっと拾ってまた懐中へ入れるとまたこぼれます。お銀様はとうとう、その幾つかの小判の包みのうち一つを取落したままで、行燈《あんどん》の火を細めて外へ出ました。
外は昨晩のように深い靄《もや》はありませんでしたけれども、闇夜《やみよ》であることは昨晩と少しも変りはありません。
お銀様が父と言い争っている時分から、この家の縁先の網代垣《あじろがき》の下に黒い人影が一つ蹲《うずく》まっていて、父子《おやこ》の物争いを逐一《ちくいち》聞いていたようです。
伊太夫が怒って足音荒く立退いてしまった時分に、そろそろと縁先へ忍び寄って戸の隙間から、お銀様の挙動を覗《のぞ》いているようでありました。抱えるようにしていたけれど、両刀の鐺《こじり》は羽織の下から外《はず》れて見えています。
お銀様が今、戸をあけて外へ出ようとした時に、この怪しい人影は、また前のところへ立退いて蹲まっていました。お銀様がどこともなく闇の中へ消えてしまった時分に、またその怪しの人影はそろそろ網代垣の下から身を延ばして、以前の通り縁先へ忍び寄り、それから雨戸へ手をかけました。お銀様のいま立てきったばかりの戸の裏には鍵をしてありません。それですから別段に音も立てずに一尺ばかり開くことができると、直ぐに中へ入ってしまいました。
なんの苦もなく障子を開いて座敷へ入った姿を見れば、紛《まぎ》れもなくひとりの武士です。それも小身の侍や足軽ではなく、多少の身分ありそうな武士です。多少の身分のありそうな武士が、こんな挙動をして人の家に忍び入るのは似合わしからぬことであります。けれども似合わしからぬことを敢てせねばならぬほどの危急に迫られたればこそ、こうして忍んで来たものと思わなければなりません。お銀様が細目にして行った行燈《あんどん》の傍へ行ってそれを掻《か》き立てた時に、頭巾から洩れる面体《めんてい》をうかがえば、それが神尾主膳であったことは、意外のようで意外でありますまい。
主膳はソロソロと昏睡《こんすい》している幸内の枕許へ寄って来て、その寝顔を暫らくのあいだ見ていました。そうしてニッとして残忍な笑い方をしましたが、背中を行燈の方に向けて、幸内の枕許へ立ちはだかるようにしてしまったから、何をするのだか挙動が少しもわからないが、ただ懐《ふところ》から縄を出して扱《しご》くような素振《そぶり》をしたり、またそこらにあったものを引き寄せるような仕事をしているうちに、寝ていた幸内が、
「ウーン」
とうなり出したのを、主膳はその頭の上から蒲団《ふとん》を被せて抑えましたから、幸内のうなる声は圧《お》し殺されたように絶えてしまいました。
それで静かになってしまうと、主膳はまた行燈の方へ向き直りましたが、幸内は蒲団を被せられてしまっているから、どうなったのかサッパリわかりません。ただ前よりは一層おとなしくなってしまったようであります。行燈の方へ向き直った主膳は、思わず小さな声で、
「あっ」
と言って自分の両の手先を見ました。その手先へ鬼蜘蛛《おにぐも》のような血の塊《かたまり》がポタリポタリと落ちている。
「ああ鼻血か」
主膳は、仰向いて、その手を加減しながら自分の懐中《ふところ》へ入れて畳紙《たとう》を取り出して面に当てました。いま主膳を驚かしたその血の塊は、外《よそ》から出たのではありません、自分の鼻から出た鼻血でありました。けれども紙で拭いたその血を行燈の光で見ると夥《おびただ》しいもので、黒く固まってドロドロして、しかもそれが一帖の畳紙《たとう》を打通《ぶっとお》して染《し》みるほどに押出して、まだ止まらないのです。
神尾主膳は、そのあまりに仰山な鼻血の出様に、自分ながら怖くなったようでありました。鼻血を抑えながら、あたりを始末して以前の戸口からこの座敷を脱《ぬ》け出しました。
二
お銀様がこの夜中に家を脱け出したのは、あまりと言えば無謀です。けれどもそれが無謀だか有謀だかわかるくらいならば、家を脱け出すようなことはしますまい。ともかくも、こうしてお銀様は無事に屋敷を脱け出し、有野村を離れて甲府をさして闇の中をヒタ歩きに歩きました。その途中、無事であったことは幸いです。
しかし、それを離れて後ろから跟《つ》いて行く神尾主膳の姿などを想像にも思い浮べることのなかったのは、幸いとは言えません。
ようやく甲府の町へ入ろうとする時分に辻番がありました。荒川を渡って元の陣屋跡のところに、このごろ臨時に辻番が設けられました。
「これこれ、どこへ行かっしゃる」
辻番の中で六尺棒を持った屈強な足軽が、通りかかるお銀様を呼び留めました。
「はい」
と言ってお銀様はたちどまりました。
「待たっしゃい」
辻番は、お銀様の頭巾の上から足の爪先まで見据えていましたが、
「見れば女子《おなご》の一人道、どちらからおいででござる」
「有野村から参りました」
「有野村は何の何某《なにがし》という者でござる」
「はい……藤原の伊太夫の家から……召使の君と申しまする」
「有野村の藤原家の召使? それが一人でこの夜分」
「主人の内密《ないしょ》の使でよんどころなく……こんなに遅くなりました」
「はて、そうしてどこへ行かっしゃるのじゃ」
「それは……御城内の神尾主膳様のお屋敷まで」
お銀様は、ここで二つのこしらえごとを言ってしまいました。自分がお君の名を仮《か》りたことと、神尾主膳の屋敷を行先のように出鱈目《でたらめ》に言ってしまったことです。
「神尾主膳殿へ?」
と言って辻番は、ややけねんを持つように、お銀様を見廻していたが、
「よろしい、通らっしゃい。しかし、このごろは市中が物騒でござることをそなたはまだ知らぬと見えるな。物騒というのはほかではない、よく人が斬られる、辻斬が流行《はや》るから宵のうちさえ人の通りは甚だ少ない、知らぬこととはいえこの深夜、一人で、まして女の身で、このあたりを歩くというは危険千万じゃ」
「有難うございます」
辻番に通らっしゃいと言われたから、お銀様はそこを通り過ぎてしまうと、飯田新町の通りであります。
いま、辻番から言われたこともお銀様は、もう忘れてしまいました。甲府のこのごろの物騒なことも有野村あたりまで聞えていないのではなかったけれど、お銀様の耳へはそれがまだ入っていませんでした。さて、甲府の町へ入るには入ったけれど、どこへ行こうという当《あて》はありません。神尾主膳の邸と言ったのはもとより出鱈目《でたらめ》ですけれども、うすうす心のうちでお銀様が心当てにして来たのは、それは役割の市五郎の家でした。
役割の市五郎を訪ねることに心をきめたお銀様が、案内を知った甲府の町の道筋をお城の方へと歩いて行くと、子供の泣き声が聞えました。
その子供の泣き声がいかにも物悲しそうに聞えて来ました。、弱い帛《きぬ》を長く裂いてゆくように泣き続けて、やがて咽《むせ》び入《い》るようになって消えたかと思うと、また物悲しそうに泣く音《ね》を立てて欷歔《しゃく》り上げる泣き声が、いじらしくてたまらなく聞えます。
お銀様は、どこからともなくその物悲しい子供の泣き声を聞いた時にはじめて、もう夜も大分ふけていることに気がつきました。気がついて立ったところのすぐ眼の前に、こんもりと一叢《ひとむら》の森があることを知りました。右の方は城内へつづくお武家屋敷があることを知りました。眼の前の森は穴切明神の森であることも、甲府の地理に暗くないお銀様には直ぐに合点がいったのです。その明神も見えるし、その森蔭にはお小人屋敷《こびとやしき》なんぞもあるのですから、闇の晩とはいえ、それを見極めることになんの手数も要《い》らないわけであります。
甲斐の国、甲府の土地は、大古《おおむかし》は一面の湖水であったということです。冷たい水が漫々と張り切って鏡のようになっていると、そこへ富士の山が面《かお》を出しては朝な夕なの水鏡をするのでありました。富士の山の水鏡のためには恰好《かっこう》でありましょうとも、水さえなければ人間も住まわれよう、畑も出来ようものをと、例の地蔵菩薩がお慈悲心からある時、二人の神様をお呼びになって、
「どうしたものじゃ、この水をどこへか落して、人間たちを住まわしてやりたいものではないか」
と御相談になると、そのうちの一人の神様が、
「それは結構なお思いつきでござる、なんとかひとつ拙者が工夫してみましょう」
と言って、四辺《あたり》の地勢を見廻していたが、やがて前の方の山の端の薄いところを、
「エイ」
と言って蹴飛ばすと、その山の端の一角が蹴破られてしまいました。それを見るより、もう一人の神様が立ち上って、
「よしよし、あとは拙者が引受けてなんとかしよう」
と言って、いま蹴破られた山の端へ穴をあけて、そこへ一条の水路を開いたから、見ているうちに漫々たる大湖水の水が富士川へ流れて落ちました。
それを遠くの方で見ていた不動様が、
「乃公《おれ》も引込んではおられぬわい」
と言って、川の瀬をよく均《なら》して水の
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