間は、人気の荒いことを以て有名であります。今日の催しとても、単に流鏑馬の神事だけを以てこの景気を打留めにするのは物足りないと思っているところへ、
「喧嘩!」
 この声は、無茶な群衆心理をこしらえ上げるのに充分な声でありました。
 女乗物の行列の前後左右から鬨《とき》の声が起りました。しかしこの鬨の声はまだ別段に危険性を帯びた鬨の声ではなく、ただ、喧嘩だ! というまだ内容のわからない叫喚に応ずる、意義の不分明な合図に過ぎません。
 しかし、この女乗物の行列には多分の附添もいるし、沿道の警戒も行届いているから、それに懸念《けねん》はないけれども、前路に当ってその騒ぎのために一時、行列の進行がとまることはよくないことでありました。それがために混乱を大きくすると困ることになる。それだから駕籠側《かごわき》の侍や足軽たちは、屹《きっ》と用心して眼を八方に配ります。
「喧嘩だ、喧嘩だ」
 前の方の騒ぎが大きくなるにつれて、後ろの方の弥次の声も大きくなりました。しかし、そのいずれも、この身分のある女房たちに危害を加えようとして起った叫喚でないことは確かであります。
 今、とある小屋掛けの中から跳《おど》り出した裸一貫の男がありました。
 裸一貫といっても、腹には新しい晒《さらし》を巻いていました。そうして裸体《はだか》であるにも拘らず、脚絆《きゃはん》と草鞋《わらじ》だけは着けていました。その上に釣合わないことは、背中に青地錦《あおじにしき》の袋に入れた長いものを廻して、その紐を口で啣《くわ》えていました。
 その小屋掛けから跳り出した時には、左の片手に短刀を揮《ふる》って、右の片手はと見れば、それは二の腕の附根のあたりからスッポリと斬り落されて――いま斬り落されたわけではない、斬り落された腕のあとは疾《と》うに癒《い》え着いていましたが、
「どうでもしてみやがれ」
 短刀を振り廻した左の手首にも血がついているし、面の眉間《みけん》を少し避けたあたりにも血が滲《にじ》んでいました。
「野郎、ふざけやがって……」
 小屋掛けから一団の壮漢が、そのあとを追って飛び出しました。
 それらの者を見ると、いずれも博徒であります。
 喧嘩! というのはこれであった。つまり博徒の喧嘩なのであった。賭場荒《とばあら》しを取って押えて簀巻《すまき》にしようとするものらしい。
 この煽《あお》りを食って宇津木兵馬も、人波の中に揉まれていなければならなくなったし、奥方様という女乗物の一行が、まともにそれと打突《ぶっつ》かったのは気の毒でもあり、慮外千万な出来事でもありました。
「無礼者、控えろ」
 お供先の足軽や侍が駈けつけました。
「どうでもしてみやがれ」
 短刀を揮《ふる》った裸一貫の男は、敢《あえ》て警固の足軽や侍を畏《おそ》れようとはしません。
「控えろ!」
 棒を持ったのが、追っかけて来る博徒を遮《さえぎ》りましたけれども、博徒連中は、そんなものが眼に留まらぬくらいに気が立っていました。
「野郎、ふざけやがって……」
「無礼者、控えろ」
 ここでお供先の足軽や侍は、博徒連を取押えるために、彼等を相手に格闘せねばならなくなりました。
「喧嘩だ、喧嘩だ」
と群衆は、いよいよ沸き立たないわけにはゆきません。
 短刀を左の手で揮った裸の男は、右の手が無いにも拘らず、その身体《からだ》のこなしの敏捷なことは驚くべしであります。取押えようとする同心や足軽の手先の棒先を潜《くぐ》り廻って、あちらへ抜け、こちらへ抜ける早業が、充分に喧嘩と人騒がせに慣れきっているものの振舞です。
 女乗物を囲んでいる女中たちは泣き出しそうです。
 宇津木兵馬のあとを追うていた二人の同心は、この騒ぎでも兵馬を見捨てて、その騒ぎの方へ出向くことを躊躇《ちゅうちょ》しました。
「左様、それでは」
 一人が一人の耳に口をつけて囁《ささや》くと、囁いた方が人を分けて前へ進み出し、囁かれた方は、もとのままに兵馬を監視しているらしい。
 この時は、すべての催しが済んで花火が盛んに揚りました。崩れ立った人の足、帰りに向く人も、出かけて来た人も、そこで食い留められ、吸い寄せられて、押す、踏む、倒れる、泣く、叫ぶ、喧嘩ならぬところに喧嘩以上の動揺の起ることは免《まぬが》れないのであります。
 喧嘩の起りはたった一人の仕業《しわざ》らしいが、その及ぼすところが怖ろしいと、心あるものはそれを憂えていました。
 ここで青地錦の袋へ入れた刀を口に啣《くわ》えて、裸体《はだか》で荒れ狂っている片腕の男ががんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であることは申すまでもありません。
 百蔵一人がエライわけではないけれど、百蔵一人のために大混乱を引起して、その大混乱が阿鼻叫喚《あびきょうかん》の世界に変ろうとする時でありました。肝腎の百蔵はいつのまにか、群衆の頭を踏み越えて、蓆張《むしろば》りの見世物小屋の丸太を伝って屋根から屋根を逃げて行きます。
「野郎、逃がすな」
 それと見た博徒や破落戸《ならずもの》の連中は同じように丸太を足場にして、見世物小屋へ這《は》い上って追っかけました。
 それで下の騒ぎが上へうつったのと、役人たちの取鎮めとが効を奏して、下の方の動揺は鎮まりましたけれども、下の動揺が上へ登った時に、かえってことを一層の見物《みもの》にしてしまいました。
 それは今までこのことの騒ぎが、いったい何に原因するのだかわからずに騒いでいた連中が、仰いで見れば、ともかくもその成行《なりゆき》が見られるようになったからであります。それですから、ことを怖がる女乗物の連中などのほかは、一人もこの場を立去るものがありません。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は血塗《ちまみ》れになって、丸太から丸太、蓆《むしろ》から蓆を伝って猿《ましら》のように走って行きます。それが見えたり隠れたり、眼もあやに走ると、そのあとを同じように裸体《はだか》になった荒くれ男が、
「野郎、逃がすな」
と罵《ののし》って、何人となく蛙のように飛びついて行くのですから、その原因と人柄はよくわからないながら、確かに面白い見物《みもの》であることに相違ありません。
 この時分に、短刀を投げ捨ててしまっていたがんりき[#「がんりき」に傍点]は、それでも青地錦だけは口に啣《くわ》えて放すことではありませんでした。
 小屋から小屋を飛んで歩いたがんりき[#「がんりき」に傍点]は、いつのまにか馬場の桟敷の屋根へ飛び移っていました。
「それ、野郎が桟敷の屋根へ飛んだ」
 蛙のような裸虫《はだかむし》が、桟敷の屋根、桟敷の屋根と言いながら飛びついたけれども、これらの裸虫は、がんりき[#「がんりき」に傍点]のやったように手際よく、小屋掛けから桟敷の屋根まで飛びうつることができません。
 彼等は一旦、小屋の尽きたところで飛び下りて、搦手《からめて》から、この桟敷の屋根へのぼり始めました。
「エッサ、エッサ」
 桟敷の柱と屋根とは、みるみる裸虫で鈴なりになってしまいました。
 桟敷の屋根の上をツーと走ったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、正面の馬見所《ばけんじょ》の方へと逃げて行きます。ここは太田筑前守と駒井能登守の両席のあったところで、他の桟敷はここを正面として、長く左右の花道のようになっていました。それですから、ツマリ両花道から追い込んだ捕物を、本舞台で立廻りを見せて、捉まえるか逃がすかという場合にまで展開されてしまったわけです。
 この望外の見物をどうして見残して帰れるものか。流鏑馬の競技があまり上品に取り行われて、期待したほどの興味を齎《もたら》さなかったのを飽かず思っていた大向うは、これで充分に溜飲《りゅういん》を下げようとするのであります。
 沈んだ日暮とはいうものの、白根《しらね》の方へ夕陽の光がひときわ赤く夕焼をこしらえて、この桟敷の屋根へ金箭《きんせん》を射るようにさしかけていましたから、下の広場から見物するにはまだ充分の光でありました。ことに夕暮の色は、この活劇の書割《かきわり》を一層濃いものにしたから、白昼に見るよりは凄い舞台面をこしらえて、登場の裸虫どものエッサエッサと言う声も、物凄いやら、勇ましいやら。
 これから屋敷へ帰ろうとした神尾主膳もまた、この騒ぎを見物しないわけにはゆきません。主膳はその一類の者と共に馬場の下から、桟敷の上の舞台面を見上げているうちに、何に気がついたか、面《かお》を顰《しか》めて慌《あわただ》しく左右を顧み、
「小森殿、小森殿」
と呼びました。
 エッサエッサという裸虫は両方から取詰めて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、正面をきって彼等を待ち受けるよりほかは身動きのならぬ立場に至ってしまいました。右の方は八幡宮の屋根までは距離が遠いし、前は馬場、後ろは控えの小屋、どちらへ向いても人が充満しきっています。
「野郎」
 裸虫《はだかむし》が一匹、飛びつきました。
「何をしやがる」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]は左の拳を固めて、眼と鼻の間を突くと、裸虫が仰向けに桟敷の上から突き落されました。
「この野郎」
 つづいて飛びかかる裸虫、般若《はんにゃ》の面《めん》を背中に彫《ほ》りかけてある裸虫。
「手前《てめえ》もか」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は平手でピシャリと横面《よこづら》を撲《なぐ》っておいて、足を飛ばして腹のところを蹴ると、これも真逆《まっさか》さまに転げ落ちる。
「野郎」
 第三の裸虫。
「ふざけやがるな」
 第四の裸虫。
「この野郎」
 第五の裸虫。
「野郎、野郎」
 第六の裸虫とそれ以下の裸虫。
 屋根の上の裸虫は、おたがいにとって勝手でもあり不勝手でもありました。捉《つか》まえどころのないことは、敵にとって利益であれば、味方にとっても同じく利益であるように、味方にとって不利益な時は、敵にとっても不利益であります。
 ことに、片腕の無いがんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、片腕が無いだけ、それだけ捉まえどころが少ないわけであります。がんりき[#「がんりき」に傍点]の立場から言えば、取組ませては万事休するのですから、その敏捷な身体のこなしと、自由自在な一本の腕を以て、敵に組ませないうちに突き落してしまうに限るのであって、がんりき[#「がんりき」に傍点]はよくその策戦に成功しました。
 青地錦に包んだ長い物だけは、抜く暇がなかったか抜かない方が勝手であったのか、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、その紐を口に啣《くわ》えたままで、それを以て自分を守ろうとしないで、身を以てその袋を守ろうとするもののように見えます。
 寄せて来た裸虫も、がんりき[#「がんりき」に傍点]を取って押える目的と、一つにはその青地錦を引奪《ひったく》ろうとする目的と二つがあるように見えました。その二つはいずれも成功しないで、大の裸虫が、ズドンバタンと高いところから突き落されたり、尻餅を搗《つ》いてそのままウォーターシュートをするように下へ辷《すべ》り落ちてギャッと言うものもありました。
 もどかしがってこの屋根の上の組んずほぐれつの活劇を見ていた神尾主膳の許へ、小森蓮蔵が弓矢を携えてやって来ました。
 小森は流鏑馬の時の姿ではなく、羽織は着ないで袴だけつけて、やはり白重籐《しろしげとう》の弓に中黒の矢二筋を添えてやって来ました。
 小森を迎えに行った侍がそのあとから、二十四差した箙《えびら》を持ってついて来ました。
「小森殿、早う」
と神尾主膳が招きました。
「何事でござる」
「小森殿、大儀ながら、あの悪者を仕留めてもらいたい」
 神尾に言われて、屋根の上の騒ぎを見ていた小森の眼には、やや迷惑の色がかかりました。
「いったい、あれは何事でござる」
「あの中での悪者は、あれあの袋に包んだ太刀を持っているその片腕の無い奴がそれじゃ、察するにあの太刀を奪い取って逃げようとするのを、大勢に追いつめられて、逃げ場を失ったものと見ゆる。しかし、片腕ながら、大勢を相手にひるまぬところは面憎《つらにく》き奴、
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