ば出来上るほどに、お君の形体と心とを変化させずにはおきません。
 笑うにも単純な笑いではありません。その笑いの末には罠《わな》があって、人を引き落すような笑いになってゆきます。物を言うにも無邪気な言いぶりではありません。そのうちに溶けるような思わせぶりを籠めておりました。物を見る目はおのずから流眄《ながしめ》になって、その末には軟らかい針をかけるようになりました。お君はその愛情を独占しているはずの能登守に対してすら、この笑いと、思わせぶりと、流眄とをやめることができませんでした。
 能登守というものは、みるみるこのお君のあらゆる誘惑のうちに溶けてゆきました。お君の誘惑はいわば自然の誘惑でありました。能登守を誘惑しつつ自分もまたその誘惑の中に溶けてゆくのでありました。お君には殿様を誘惑する心はありません。おのれの色香を飾って為めにする計画もありません。それは新しい春になって、山国の雪の中にも梅が咲き、鶯《うぐいす》がおとずれようとする時候になったとはいえ、この邸から忍び音の三味の調べをさえ聞こうとは思いがけぬことであります。
 外においての能登守が、あんなに煙がられたり邪推されたりしてい
前へ 次へ
全207ページ中95ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング