は一言も呼ばれませんでした。遺憾ながら「友さんも帰りましたか」という言葉が、お君の口から出ないでしまいました。それで二人は風呂場へ行ってしまったようでした。米友は大戸の入口から、まだ中を睨《にら》んで立っています。
 それから米友は、軒下を歩いて自分の部屋へ帰ろうとする時に、
「誰だい、そこの節穴からこの屋敷の中を覗いているのは誰だい」
と言って、また立ち止まって塀を睨みました。
「また折助のやつらだろう、誰に断わってそこからこっちを覗くんだ、やい、鉄砲を打放《ぶっぱな》してくれるぞ」
 おどかすつもりであろうけれども、米友は担《にな》っていた鉄砲を肩から卸《おろ》しました。
 米友が推察の通り、この塀の外から中を隙見《すきみ》していたのは折助でありました。折助が三人ばかり先刻から節穴を覗いていたのを、米友に見つけられて彼等は丸くなって雪の中を逃げました。
 折助は雪の中を、こけつまろびつ逃げて、とうとう八日市の酒場まで逃げて来ました。それは縄暖簾《なわのれん》の大きいので、彼等の倶楽部《くらぶ》であります。
 彼等三人がこの八日市の酒場へ逃げ込むと、そこには土間の大囲炉裏《おおいろり
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