さぬと」
「それ故、こっそりとこの裏口から帰って来た。しかし誰に叱られても、この大雪ではじっとしておられぬわい……留守中、あの病人にも変ることはなかったか」
「よくお休みでございます、気分もおよろしいようで」
「それは何より。さあ、これがお前への土産《みやげ》じゃ」
「まあ、これをお打ちあそばしたのでございますか」
「そうじゃ、荒川沿いの堤《どて》の蔭で」
「かわいそうに」
「これはしたり、そなた殺生《せっしょう》は嫌いか」
「殺生は嫌いでございますけれど、殿様のお土産ならば大好きでございます」
「はは、たあいないものじゃ」
「あの、お風呂がよく沸《わ》いておりまするが、お召しになりましては」
「それは有難い、ではこのまま風呂場へ」
「御案内を致しまする」
 米友は、大戸の入口から洩れて来るこれらの会話《はなし》をよく聞いていました。大戸の中をやや離れて覗《のぞ》き込むようにしていたが、その額に畳んだ小皺《こじわ》のあたりに雲がかかって、その眼つきさえ米友としてはやや嶮《けわ》しいくらいです。
 そこで話がたえたけれども、この会話の間にも、お君の口からも能登守の口からも、米友という名前
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