「ナーニ」
 米友は眼を外《そ》らして横を向いて、能登守の労《ねぎら》う言葉を好意を以て受取ろうとしません。屋敷に着いた時も、表から入らずに裏から入りました。
 出て行った時でさえ、家来の者も気がつかなかったくらいだから、帰った時には、なお気がつく者がありませんでした。
 主人を送り込んだ米友は、その鉄砲を担いだままで、ジロリと主人の入って行った後を見送っていました。
「お帰りあそばせ」
と言って迎えたのは女の声であります。女の声、しかもお君の声であります。その声を聞くと米友は眼をクルクルと光らせて、大戸の中を覗《のぞ》き込むようにしました。けれども主人能登守の姿も見えないし、お君の姿も見えません。二人の姿は見えないけれど、その声はよく聞えます。
「よく降る雪だ」
「この大雪に、どちらまでおいであそばしました」
「竜王の鼻へ雪見に行って来たのじゃ」
「ほんとに殿様はお好奇《ものずき》でおいであそばす」
というお君の声は、晴れやかな声でありました。
「ははは、これも病だから仕方がない」
 能登守も大へんに御機嫌がよろしい。
「また御家来衆に叱られましょう、お好奇《ものずき》も大概にあそば
前へ 次へ
全207ページ中68ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング