のじゃわい、道のりにしてはいくらもないけれど、おれには帰れぬ、帰ってくれと言う者もないけれど。ああ、子供が一人いる、親の無い子供が泣いている」
竜之助は炬燵《こたつ》の上から頭を持ち上げました。子供が一人いる、親の無い子が泣いている、これはまた何という取っても附かぬ述懐であろう。この人にしてこんな言《こと》……その面《かお》を見ると、冷やかな蒼白い色に言うばかりなき苦悶の影がありありと現われましたけれど、それは電光のように掠《かす》めて消えてしまいました。
消えないのはお銀様の眼の前に、前の晩、穴切明神のあたりで泣いていた男の子、親は何者かのために斬られて非業《ひごう》の最期《さいご》。ひとり泣いていた、あの子はどうなった――ということであります。
お銀様は机竜之助の傍に引きつけられていました。
日が暮れるまでそこで泣いていました。日が暮れるとその屋敷の小使が食事を運んで、いつもの通りその次の間まで持って来て置きました。
竜之助は夕飯を食べましたけれども、お銀様は食べませんでした。
夕飯を食べてしまった後の竜之助は、障子をあけてカラカラと格子戸を立てました。外の雨戸のほかに
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