神尾主膳が続けざまにお銀様の名を呼んだ時は、もう酒乱の境まで行っていました。その時は思慮も計画も消滅して、これから燃え出そうとするのは、猛烈なる残忍性のみであります。
「お銀どの、お銀どの」
二階の梯子段の上まで行って下を見ながら、またお銀様の名を呼びました。けれどもお銀様の返事はありません。
「お銀どの、お銀どの」
例の刀を持ちながら広い梯子段を、覚束《おぼつか》ない足どりで二段三段と降りはじめました。
「はい」
この時、はじめて廊下をばたばたと駈けるようにして来たのはお銀様であります。どこにいたのか、お銀様は神尾の呼んだ声をいま聞きつけて、廊下を急ぎ足で駈けて来ましたけれど、面《かお》は恥かしそうに俯向《うつむ》いて、両袖を胸の前へ合せていました。
「ああ、お銀どの、今、そなたを呼びに行こうとしていたところじゃ。さあ、これへお上りなされ、誰もおらぬ、遠慮なくお上りなされ。お上りなされと申すに」
その言いぶりが穏かでないことよりも、その酔っていることがお銀様を驚かせましたけれども、神尾はお銀様の驚いたことも、またお銀様をこんなことで驚かせては不利益だということも、一向見境い
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