膳が坐っている二階の一間は、雪見には誂向《あつらえむ》きの一間で、前に言った躑躅ケ崎の出鼻から左は高山につづき、右は甲府へ開けて、常ならば富士の山が呼べば答えるほどに見えるところであります。
「あの男はよく寝ている、あまりよく寝ている故、起すのも気の毒じゃ、眼が醒《さ》めてから呼ぶとしよう」
主膳はこう言って、三ツ組の朱塗の盃をこわして、一人で飲み始めました。一人で飲みながらの雪見です。雪見といっても、眼の下の広い庭の中に池があって、その池の傍に巨大なる松の木が枝を拡げています。この松を「馬場の松」と人が呼んでいましたのは、おそらく同じ武田の時代に馬場美濃守の屋敷がその辺にあったから、それで誰言うとなく馬場の松という名がついたのでありましょう。この馬場の松に積る雪だけでも、一人で見るには惜しいほどの面白いものがあります。しかし、主膳はそれほどに風流人ではありません。馬場の松の雪を見んがために、ワザワザここへ飲み直しに来たものとも思われません。
主膳が一人でグイグイ飲んでいると、時々下男が梯子《はしご》から首を出して怖《おそ》る怖る御用を伺いに来るのみであります。
「あの男は、まだ眼
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