いうことを、一身の浮沈の瀬戸際《せとぎわ》のように気味を悪がり、それで自分たちの立場を擁護するためには、能登守の頭を擡げないように、釘《くぎ》を打ってしまわねばならぬと考えました。
それがために、駒井能登守の立場は非常に危険なものになりました。登城しても、役所へ行っても、お茶一つ飲むことも能登守は用心をしました。夜はほとんど外出しませんでした。明山侯の来る前に、能登守を毒殺してしまおうという計画があるとの風説がありました。また夜分、忍びの者を入れて暗殺させようとしているとの風説もありました。また、能登守の内事や私行をいちいち探らせているとの忠告もありました。
年が改まって、そうして変りのあったのは、これらのことのみに限りません。
駒井能登守に仕えていたお君の身の上に、重大な変化が起りました。前には戯《たわむ》れに結《ゆ》ってみた片はずしの髷《まげ》を、この正月から正式に結うことになりました。いつぞやの晩には恥かしそうに密《そっ》と引掛けた打掛を、晴れて身に纏《まと》うようになりました。それと共にお君の周囲には、一人の老女と若い女中とがお附になって、使われていたお君が、それを使うようになりました。
お君は、我から喜んで美しい眉を落してしまいました――家中《かちゅう》の者は皆この新たなるお部屋様のために喜びました。能登守のお君に対する愛情は、無条件に濃《こま》やかなものでありました。ほとんど惑溺《わくでき》するかと思うほどに、愛情が深くなってゆきました。
お君のためには、新たなる部屋と、念の入《い》った調度と、数々の衣類が調えられました。お君は夢に宝の山へ連れて行かれたように、右を見ても左を見ても嬉しいことばかりであります。
お君の血色にもまた著しい変化がありました。笑えば人を魅するような妖艶《ようえん》な色が出て来ました。そして何事を差置いても、その色艶《いろつや》に修飾を加えることが、お君の第一の勤めとなりました。
お君はこれがために費用を惜しみませんでした。能登守もまた、お君のために豊富な支給を与えて悔ゆることがないのでありました。江戸の水、常磐香《ときわこう》の鬢附《びんつけ》、玉屋の紅《べに》、それを甲府に求めて得られない時は、江戸までも使を立てて呼び求めます。
お君にとっての仕事は、もはや、それよりほかに何事もありません。その仕事は、出来上れば出来上るほどに、お君の形体と心とを変化させずにはおきません。
笑うにも単純な笑いではありません。その笑いの末には罠《わな》があって、人を引き落すような笑いになってゆきます。物を言うにも無邪気な言いぶりではありません。そのうちに溶けるような思わせぶりを籠めておりました。物を見る目はおのずから流眄《ながしめ》になって、その末には軟らかい針をかけるようになりました。お君はその愛情を独占しているはずの能登守に対してすら、この笑いと、思わせぶりと、流眄とをやめることができませんでした。
能登守というものは、みるみるこのお君のあらゆる誘惑のうちに溶けてゆきました。お君の誘惑はいわば自然の誘惑でありました。能登守を誘惑しつつ自分もまたその誘惑の中に溶けてゆくのでありました。お君には殿様を誘惑する心はありません。おのれの色香を飾って為めにする計画もありません。それは新しい春になって、山国の雪の中にも梅が咲き、鶯《うぐいす》がおとずれようとする時候になったとはいえ、この邸から忍び音の三味の調べをさえ聞こうとは思いがけぬことであります。
外においての能登守が、あんなに煙がられたり邪推されたりしているのに、内においてのこの殿様はたあいないもので、ほとんど終日お君の傍を離れぬことがありました。お君はその誘惑のあらん限りを尽して、能登守を放そうとはしませんでした。
世に食物を貪《むさぼ》るもので、惑溺の恋より甚だしいものはありません。無限の愛情を注がれても、お君はまだまだ満足したとは思いませんでした。能登守は、噛《か》んで、喰い裂いて、飲んでしまっても、まだ足りないほどにお君が可愛くて可愛くて、どうにもならなくなってしまいました。
この際において、お君の心の中のいずこにも、宇治山田の米友を考えている余裕はありません。
お君――ではない、お君の方《かた》であります。けれども昨日までのお君を急に、お君の方に改めることは、屋敷のうちの格式ではよしそうであっても、なんとなくきまりが悪い。お君もまたその当座は、自分のことでないように思います。
お君の方は今、その花やかな打掛の姿で、片手には銚子《ちょうし》を持って廊下を渡って行きました。少しばかり酔うているのか、その面《かお》は桜色にほのめいているばかりでなく、廊下を走るあしもとまでが乱れがちでありました。
廊下の庭から梅の枝ぶりの面
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