た。そうかも知れない、いつまでもこの二階の窓の下で、口小言を言ってることが意味のあるように取れば取れる。兵馬はその様子を見ようと思って、寝床を起きました。
 二階から障子を細目にあけて見ると、なるほど一人の男がしきりに、ブツブツ言いながら雪を掻《か》いています。
 兵馬が見ると、それは米友であったから意外に感じないわけにはゆきません。伊勢の古市の町と、駿河《するが》の国の三保の松原とで篤《とく》と見参《げんざん》したこの男をここでまた見ようとは、たしかに意外でありました。米友、宇治山田の米友という名前も、兵馬は記憶していました。
「ははあ、友さんというのはこれだな」
 米友の友を呼んでお松が、そう言うたものに違いないと兵馬は早くも覚《さと》りました。それと共に、さきほど、この薬の竹筒を運んでくれた男が、あれだなと覚りました。兵馬も米友を珍妙な人物だと思っています。その人物が珍妙であると共に、その槍の手筋は非常なる珍物であることを知っておりました。
 そのうちに雪を掃除していた米友が、手を休めて二階を見上げて、
「雪というやつは可愛くねえやつだ、雪なんぞは降ってくれなくても困らねえや、竹筒《たけづ》っぽうでも降った方がよっぽどいいや」
と、おかしなことを口走りました。雪なんぞは降らなくてもいい、竹筒っぽうでも降ればいいというのは、あまり聞き慣れない譬《たとえ》であります。竹筒っぽうが降れという注文は、あんまり飛び離れた注文でありましたけれど、兵馬はそれを聞いて頷《うなず》きました。取って返して例の竹筒を取り上げて、その中に入れてあった薬を手早く傍《かたえ》の紙へあけて、その代りに、いま書いたお松への返事の手紙を入れてしまって元のように栓《せん》をして、障子を前よりはもう少し広くあけると、覘《ねら》いを定めてポンと下へ投げ落しました。まもなく、
「降りやがった、降りやがった」
という声が聞えました。兵馬はその声を聞いて安心して、なお障子の隙から見ていると、米友は自分が投げた竹筒を拾って、これも手早く懐中へ忍ばせてしまって、怪訝《けげん》な面《かお》をしてこちらを見上げていたが、どこかへ行ってしまいました。

         八

 年が明けて、松が取れると、甲府城の内外が遽《にわ》かに色めき立ちました。
 平常《ふだん》、何をしているのだかわからない連中たちが、だいぶ働きはじめました。勤番支配以下、組頭、奉行、それぞれに職務を励行することになりました。
 これは、年が改まって心機が一転したからではありません。
 どういう訳か知らないが、この頃、甲府の城へ御老中が巡視においでになるという噂《うわさ》でありました。しかも、その御老中も小笠原|壱岐守《いきのかみ》が来るということでありました。この人は幕末において第一流の人物でありました。この間まで謹慎しておられたはずの明山侯が、何の必要あって突然この甲府へ来られるのだかということは、勤番支配も組頭もみな計《はか》り兼ねておりました。
 多分、上方《かみがた》の時局を収拾するためにこの甲州街道を通って上洛する途中、この甲府へ泊るのだろうと見ている者もありました。その他、いろいろにこの御老中の巡視ということが噂になっています。ともかくも、城の内外を疎略のないようにしておかなければならないというのが、新年の宿酔《しゅくすい》の覚めないうちから、急に支配以下が働き出した理由なのであります。
 御本丸から始めて天守台、櫓々、曲輪曲輪《くるわくるわ》、門々、御米蔵、役所、お目付小屋、徽典館《きてんかん》、御破損小屋、調練場の掃除や、武具の改めや何かが毎日手落ちなく取り行われます。
 駒井能登守もまた、このたびの老中の巡視ということを何の意味だか、よく知りません。けれども能登守は、あの人が幕府の今の御老中で第一流の人であるのみならず、その学問――ことに能登守と同じく海外の事情や砲術にかけてなかなかの新知識の人であることを了解していました。能登守を甲府へ廻したのは、或いはこの明山侯の意志ではなかったかとさえ言われています。
 明山侯と能登守との意気相通ずるということは、神尾主膳等の一派、及び先任の支配太田筑前守を囲む一派のためには心持のよくないことであります。彼等は明山侯の来るのを機会として、雌伏《しふく》していた能登守が頭を擡《もた》げはしないかと思いました。かねて能登守を甲府へ廻しておいて、今日その機会が到来したために、明山侯がその打合せに来るものだろうとさえ邪推する者もありました。
 そうでないまでも、それについてなんらかの対抗策を講じておかなければならないと思いました。まんいち能登守が勢力を得る時は、我々が勢力を失う時だと焦《あせ》り出した者もあります。これらの連中は、このたびの老中の巡視と
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