ま快き眠りに落ちて行きました。
 ややあって宇津木兵馬は、何物かの物音によって夢を破られ、眼を開いた時、障子を締めて廊下を渡って行く人の足音を聞きました。多分、食物か薬を、例のお君が持って来てくれたものだろうと思って、枕許を見ました。
 枕許には、竹の筒が置いてあります。その竹の筒には凧糸《たこいと》が通してあります。凧糸の一端に結び文のようなものが附いていることを認めました。
 今までこんなものを持って来たことはないのに、何もことわりなしに、ちょこなんと、これだけを置き放しにして行ってしまったことが、兵馬にはなんだか、おかしく思われるのでありました。
 そう思って考えてみると、今、これを置き放しにして行ってしまった人の足音が、どうも、いつも来てくれるお君の足どりではないと思い返されました。といって能登守の足音とも思われません。お君でなし、能登守でなしとすれば、そのほかにここへ入って来る人はないはずである。自分のここにいることさえも知った人はないはずである。と思うにつけて、兵馬には今のおかしさが、多少の不安に感ぜられてきました。
 兵馬は手を伸べてその竹筒を取りました。手に取って一通り見ると、それは最初にお松をして破顔せしめたと同じ記号によって、病中の兵馬をも微笑させました。その一端には「十八文」と焼印がしてあるからです。
「十八文」の因縁は、兵馬もまた微笑することができるけれども、それについてもお松ほどに、たちどころに納得がゆかないのは、これがどうしてここへ来るようになったか、それともう一つは、何者がここへ持って来たかということであります。
 その不安を解決するには恰好なこの結《むす》び状《ぶみ》、兵馬は少しく身を起き上らせて、直ちに結び状の結び目を解きました。解いて見ると二枚の手紙が合せてあります。それを別々にして見ると、大きな方は例の道庵先生の処方箋でありましたが、小さな方は女文字であったから、兵馬をしていとど不審の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》らせました。
 道庵先生の「もろこし我朝に……」は兵馬も苦笑いして、そっと側《わき》に置き、その女文字の一通を読んでみると、それはお松からの手紙でありましたから、兵馬も我を忘れて読まないわけにはゆきません。あまり長い文句ではありませんでしたけれども、一別以来の大要が書いてありました。そうして今は神尾主膳の許《もと》にまでいて、御身の上を案じているということが、短いながらも要領を得て、まごころを籠《こ》めて書いて、それから、ぜひ一度お目にかかりたいが、どうしたらお目にかかれるだろうとの意味で、そのお返事をこのお薬の竹筒に入れて、友さんの手によって返していただきたいということであります。
 兵馬には、いちいちそれが了解されました。お松の心持が充分にわかって、有難いとも思い、嬉しいとも思いましたが、ただ何人《なんぴと》の手によって、この薬と手紙とがここに持ち来《きた》されたかということは、大きなる疑問です。
「友さんの手によって」とあるけれども、その友さんの何者であるかを兵馬は知ることができません。したがって、その友さんなる者に頼むこともできません。そのうち、お君が見舞にでも来た時に聞いてみようと思いました。
 ともかくも、これに対する返事を認《したた》めておこうと兵馬は、傍《かたえ》の料紙硯《りょうしすずり》を引寄せましたけれど、少し疲れているためと、頭を休ませる必要から、また仰向けになって眼を閉じていました。
 昨日までの雪は晴れて、外は大へんに明るい。窓の下の庭では雪を掃いている物音が、手にとるように聞えます。
 やがて兵馬は、お松のために返事の手紙を書いてしまって、疲れを休めていると、また窓の下で雪掃きをしているらしい人の声です。その声を聞くともなしに聞いていると、
「俺《おい》らは一体《いってい》、雪というやつはあまり好かねえんだ、降る時は威勢がいいけれど、あとのザマと言ったらねえからな」
 雪を掃除している人が口小言を言っているらしい。突慳貪《つっけんどん》に言っているけれど無邪気に聞えて、おのずからおかしい感じがします。
「道はヌカるし、固めておけばジクジク流れ出すし、泥と一緒に混合《ごっちゃ》になって、白粉《おしろい》が剥《は》げて、痘痕面《あばたづら》を露出《むきだ》したようなこのザマといったら」
 雪を目の敵《かたき》にして、頭ごなしにしているようです。しかしながら聞いていると、なんとなく前に聞いたことのあるような声でありました。誰であって、いつ会った人だか、ちょっと見当がつかないけれども、確かに兵馬の耳に一度は聞いたことのある声だと思わせられました。ふと、お松の手紙にある友さんというのはこの人のことではないかと、兵馬はそんなことを想像しまし
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