す」
「その若い人の名前は何と言うんだい」
「それは……あの、宇津木兵馬というの」
「宇津木兵馬」
 米友は口の中でその名を繰返して、お松の手渡しする竹筒入りの薬を受取りました。お松は喜びと感謝とで、米友を拝みたいくらいにしているのに拘《かかわ》らず、米友の面には、やはり前からの曇りが取り払われていません。
 お松は米友にくれぐれもこのことを頼んでおいて、またこっそりと傘をさして、前の潜《くぐ》りから帰りました。お松が神尾の邸の前まで来かかった時分に、雪を蹴立てて十数人の人が、南の方から駆けて来てこの門内へ入り込みました。
 あまりそのことが、あわただしいので、お松は暫らく立って様子を聞いておりました。
「失敗失敗」
 口々にこんなことを言いおります。
「どうした、おのおの方」
 酔っているらしい主人の神尾が声。
「ものの見事に出し投げを食った、今までかかって雀一羽も獲《と》れぬ。どこをどうしたか、目当ての鶴は、もう巣へ帰って風呂を浴びているそうじゃ」
「こいつが、こいつが」
 神尾主膳は、縁板を踏み鳴らしているようです。それから大勢の罵《ののし》り合う声、神尾の酔いに乗じて叱り飛ばす声。それが済むとまた十余人の連中が、トットと門を走《は》せ出してどこかへ飛んで行きます。

         七

 宇津木兵馬は、駒井能登守の二階の一室に横たわって、病に呻吟《しんぎん》していました。
 兵馬の病気は肝臓が痛むのであります。それに多年の修行と辛苦と、獄中の冷えやなにかが一時に打って出たものと見えます。
 ここへ来てからほんの僅かの間であったけれども、手当がよかったせいか、元気のつくことが著《いちじる》しいのであります。今も痛みが退《ひ》いたから、横になっている枕を換えて仰臥して天井を見ていました。
 駒井能登守とは何者、南条、五十嵐の両人は何者――ということを兵馬は天井を見ながら思い浮べておりました。
 能登守の語るところによれば、南条の本姓は亘理《わたり》といって、北陸の浪士であるとのこと。能登守とは江戸にある時分、砲術を研究していた頃の同窓の友達であったということです。
 また五十嵐は、東北の浪士であるということです。二人は相携えて上方からこの甲州へ入り込んで来たということです。
 能登守が笑って言うには、「あの連中は、ありゃ甲州の天嶮を探りに来たのじゃ、甲州の天嶮を利用して大事を成そうという計画で来たものじゃ。いくら今の世の中が乱れたからとて、あの二人の力で甲州を取ろうというのはちと無理じゃ、けれどもその志だけは相変らず威勢がよい。いったい、今時の浪人たちは、ああして日本中を引掻き廻すつもりでいるところが可愛い、徳川の旗本に、せめてあのくらいの意気込みの者が二三人あれば……」能登守は兵馬に向って、こんなことを言って聞かせました。
 彼等は甲州の天嶮と地理を探って、何か大事を為すつもりであったものらしい。それが現われて、捉まってこの牢へ入れられたものらしい。牢を破ってここへ逃げ込んだことは、我人《われひと》共に幸いであったけれど、我々をこうして隠して置く駒井能登守という人のためには、幸だか不幸だかわからないと思いました。
 能登守は、もう無事に南条と五十嵐の二人をこの邸から逃がしてしまった、この上は御身一人である、ここにいる以上は安心して養生するがよいと親切に言ってくれました。ともかくも、南条と言い、五十嵐と言い、それに自分と言い、金箔附きの破牢人であることに相違ない。その金箔附きの破牢人である自分たちを、公儀の重き役人である能登守が、逃がしたり隠して置いたりすることは、かなり好奇《ものずき》なことに考えられないわけにはゆきません。
 砲術にかけてはこの能登守は、非常に深い研究をしているとのことを聞きました。それとは別に能登守は、医術に相当の素養があることも兵馬にはすぐにわかりました。
 肝臓が痛むということも、兵馬が言わない先から能登守は見てくれました。これが肺へかかると一大事だということ、しかし今はその憂《うれ》いはないということをも附け加えて慰めてくれました。南条や五十嵐もかなり奇異なる武士であったけれど、この能登守も少しく変った役人と思わせられます。そのうち、この人に委細を打明けて、自分の本望を遂げる便宜を作ろうと兵馬は思いましたけれども、まだそれを打明ける機会は得ません。兵馬は能登守のことを思うと共に、それよりもまた因縁の奇妙なることは、曾《かつ》て自分がその病気を介抱してやったことのあるお君という女が、この邸に奉公していて、それがいま自分の介抱に当っているということであります。兵馬は能登守の次に、お君の面影を思い浮べておりました。
 それやこれやと、人の面影を思い浮べているうちに、またうとうとと眠くなって、そのま
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