幸内に逃げられたのは、拙者の落度《おちど》じゃ。あれに逃げられては企《たくら》んだ狂言がフイになり、その上に拙者の身が危ないから、それで拙者は苦心を重ねてあれの行方《ゆくえ》を調べた上に、とうとうお銀どの、お前の屋敷に寝ているのを見届けた。それは、そなたが屋敷を脱け出してこっちへ来たと同じ晩、あの晩に拙者は、忍んで行って、そなたが屋敷を脱け出したあとへ忍び入り、そして幸内が息の根を止めて来た……」
「エ、エ、エ!」
「はははは、その帰りにも、そなたに怪我《けが》のないように、有野村から後をつけて来たのを、そなたは知るまい」
「それでは、あの晩に、あれからああして」
「はははは」
主膳の酒乱が頂点にのぼった時でありました。よしこれほど惨酷《さんこく》な男であっても、酔ってさえいなければ、これほどのことを高言するでもなかろうけれど、今はこうして言えば言うほど、自分ながら快味が増すのかと思われるばかりであります。
お銀様の口から、唇を噛み切った血がにじむのに拘《かかわ》らず、神尾主膳は高笑いして、
「さあ、これから幸内が身代りに、お銀どの、そなたが狂言の玉じゃ、幸内に飲ませたと同じ酒をそなたにいま飲ませてやるのじゃ、幸内が飲んだように、そなたもその酒を飲むのじゃ」
「助けて下さい――誰か、来て下さいまし!」
お銀様は、ついに大声で救いを求めました。
「それそれ、それだから酒を飲ませるのじゃ、その酒を飲むと、痛くても痒《かゆ》くても声が立たぬようになるのじゃ、ここの小瓶に入っているものを、ちょっとこの酒の中へ落して、こう飲まっしゃれ」
神尾主膳は、刀を傍へさしおいて、片手ではお銀様の口を押え、片手では、三ツ組の朱塗の盃のいちばん小さいのへ酒を注いで、その上へ小瓶の中から何物かを落して、無理にお銀様の口を割って飲ませようとします。お銀様は、
「アッ、いや――誰か、誰か、来て――苦しッ」
「あ痛ッ」
神尾主膳が痛ッと言って、お銀様に飲ませようとした小盃を畳の上へ取落して、飛び上るように手の甲を抑えたのは、今、必死になったお銀様のために、そこをしたたかに食い破られたのであります。
「わたしは死ねない、まだここでは死ねない、幸内、幸内、誰か、誰か、誰か来て……」
お銀様は飛び起きて梯子段を転げ落ちました。
「おのれ、逃がしては」
神尾主膳は、さしおいた伯耆の安綱の刀を持って酔歩蹣跚《すいほまんさん》として、逃げて行くお銀様の後を追いかけました。
梯子を転げ落ちたお銀様は、転げ落ちたのも知らず、直ぐに起き返ったことも知らず、どこをどう逃げてよいかも知らず、ただ白刃を提げて追いかける悪魔に追い迫られて、廊下を曲って突当りの部屋の障子を押し開いて逃げ込みました。
お銀様が逃げ込んだその部屋には炬燵《こたつ》がありました。
その炬燵には横になって、人が一人、うたた寝をしておりました。それに気のついた時に神尾主膳はもう、白刃を提げてこの部屋の入口のところまで来ていました。
「ああ、あなたは善い人か悪い人か知らない、わたしを助けて下さい、わたしはここでは死ねません」
お銀様はその横にうたた寝をしていた人の首に、しっかとしがみつきました。
机竜之助はこの時眼が醒《さ》めました。眼が醒めたけれども、この人は眼をあくことの出来ない人であります。ただわが首筋へしがみついたその者の声は女であることを知り、竜之助の首を抱えた腕は火のようであることを知り、その頬に触れる血の熱さも火のようであることを知ったのみです。
「助けて下さい、神尾主膳は鬼でございます、わたしは殺されてもかまいませんけれど、神尾主膳の手にかかって殺されるのはいやでございます、あなた様は善いお方だか悪いお方だか知れないけれども、わたしを助けて下さい、助けられなければ、あなたのお手で殺して下さい、わたしは神尾主膳に殺されるよりは、知らない人に殺された方がよろしうございます」
この言葉も息も、共に炎を吐くような熱さでありました。
「神尾殿、悪戯《いたずら》をなさるな」
竜之助はここで起き直ろうとしました。しかしお銀様の腕は竜之助の身体から離れることはありません。竜之助はそれを振り放そうとした時に、お銀様の乱れた髪の軟らかい束が、竜之助の面《かお》を埋めるように群っているのを知りました。
「はははは」
神尾主膳は敷居の外に立って高らかに笑いました。その手には、やはり伯耆の安綱を提げていましたけれど、その足は廊下に立って、その面はこっちを向いたままで一歩も中へは入って来ませんでした。
「助けて下さい」
お銀様は、竜之助の蔭に隠れました。蔭に隠れたけれども、しっかりと竜之助に抱きついているのでありました。もしも神尾に斬られるならばこの人と一緒に……お銀様は、どうしても自分一人だ
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