か、何か心祝いの酒のように見えました。飲んでいるうちに、ようやくいい心持になって、
「おい、雪見だ、雪見だ、せっかくの雪をこんなところで飲んでいては面白くない、これから躑躅《つつじ》ケ崎《さき》へ雪見に出かける、誰か二人ばかり行ってその用意をしておけ、下屋敷の二階の間を掃除して、火を盛んに熾《おこ》して酒を温め、あっさりとした席をこしらえておけ」
と命令し、
「さあ、これから躑躅ケ崎へ出かける。歩いて行くとも。いざさらば雪見に転ぶところまでも古いが、この雪見に歩かないで何とする。伴《とも》は一人でよろしい、仲間《ちゅうげん》一人でよろしい。長合羽の用意と、傘履物」
 主膳は立ち上って、
「刀……」
と言って、よろよろとした足許を踏み締めると、女中が常の差料《さしりょう》を取って恭《うやうや》しく差出しました。
「これではない、あちらのを出せ」
 床の間の刀架《かたなかけ》に縦に飾ってある梨子地《なしじ》の鞘《さや》の長い刀を指しました。
「うむ、それだ」
 梨子地の鞘の長い刀を大事に取下ろして主人へ捧げると、主膳はそれを受取って、
「これが伯耆《ほうき》の安綱だ」
 言わでものことを女中に向ってまで口走るのは、酒がようやく廻ったからであります。
 伯耆の安綱――してみればこの刀はこれ、有野村の藤原家の伝来の宝、それを幸内の手から捲き上げて、今はこうして拵《こしら》えをかえて、自家の秘蔵にしてしまったものと見るよりほかはないのであります。

         五

 神尾主膳は酒の勢いで、この雪の中を躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷まで歩いて行きました。
 そこへ辿《たど》りついて見ると、さいぜん言いつけておいた通りに、二階の一間が綺麗《きれい》に掃除されて、そこでまた一盞《いっさん》を傾けるように準備が整うていました。三ツ組の朱塗の盃が物々しく飾られてありました。
 この躑躅ケ崎の古屋敷というのは、武田の時分には甲坂弾正と穴山梅雪との屋敷址であったということです。昔は鶴ケ崎と言い、今は躑躅ケ崎という山の尾根が左手の方にズッと突き出ています。それと向って家は東南に向いていました。この家はなかなか大きなもので、ずっと前に勤番の支配であった旗本がこしらえて、その後は長く空家同様になっていたのを神尾主膳が、何かの縁で無償《ただ》のように自分のものにしたのです。
 いま、主膳が坐っている二階の一間は、雪見には誂向《あつらえむ》きの一間で、前に言った躑躅ケ崎の出鼻から左は高山につづき、右は甲府へ開けて、常ならば富士の山が呼べば答えるほどに見えるところであります。
「あの男はよく寝ている、あまりよく寝ている故、起すのも気の毒じゃ、眼が醒《さ》めてから呼ぶとしよう」
 主膳はこう言って、三ツ組の朱塗の盃をこわして、一人で飲み始めました。一人で飲みながらの雪見です。雪見といっても、眼の下の広い庭の中に池があって、その池の傍に巨大なる松の木が枝を拡げています。この松を「馬場の松」と人が呼んでいましたのは、おそらく同じ武田の時代に馬場美濃守の屋敷がその辺にあったから、それで誰言うとなく馬場の松という名がついたのでありましょう。この馬場の松に積る雪だけでも、一人で見るには惜しいほどの面白いものがあります。しかし、主膳はそれほどに風流人ではありません。馬場の松の雪を見んがために、ワザワザここへ飲み直しに来たものとも思われません。
 主膳が一人でグイグイ飲んでいると、時々下男が梯子《はしご》から首を出して怖《おそ》る怖る御用を伺いに来るのみであります。
「あの男は、まだ眼が覚めないか、起しに行ってやろうかな、しかし炬燵《こたつ》へ入ってああして熟睡しているところを叩き起すも気の毒じゃ、疲れて昼は休んでいる」
 主膳があの男というのは、ここの屋敷に籠《こも》っているはずの机竜之助のことでありましょう。竜之助を相手に雪見をしようと思って来たところが、その竜之助はいま眠っているものと見えます。
 主膳はこんな独言《ひとりごと》を言っているうちに、立てつづけに呷《あお》りました。浴びるように飲みました。気がようやく荒くなりました。
「うむ、うむ、この刀、この刀」
と言って主膳は、やや遠く離して置いてあった例の梨子地の鞘の長い刀の下《さ》げ緒《お》を手繰《たぐ》って身近く引寄せて、鞘の鐺《こじり》をトンと畳へ突き立てて、朧銀《ろうぎん》に高彫《たかぼり》した松に鷹の縁頭《ふちがしら》のあたりに眼を据えました。
「この刀を試《ため》すことをいやがる机竜之助の気が知れぬ、と言って拙者の腕で試してみようという気にもならぬ」
 その途端になんと思ったのか、神尾主膳の眼中が遽《にわ》かに血走って、
「お銀、お銀、お銀どの」
 声高く、そうして物狂わしく呼びつづけました。

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