駕籠の助けを仮《か》らず、笠と合羽と草鞋《わらじ》で出かけることが、勇ましいと言えば勇ましい、気軽といえば気軽、また例の好奇《ものずき》かと笑えば笑うのでありましたが、それとても、すぐに三人の後に附添うた一人のお伴《とも》の有様を見れば、ははあなるほどと納得《なっとく》ができるのであります。
 そのお伴は鉄砲を担《かつ》いで、弾薬袋を肩から筋違《すじかい》に提《さ》げておりました。能登守はこうして今、家来とお伴とをつれて雪に乗じて、得意の鉄砲を試そうとするものと見えます。そうすればなるほど能登守らしい雪見だと、誰もいよいよ異議のないところでありましたけれど、その鉄砲を担いで弾薬袋を提げたお伴《とも》なるものが、尋常一様のお伴でないことを知っていると、また別種な興味が湧いて来なければならないのであります。
 その伴は宇治山田の米友でありました。前に立った三人ともに合羽を着ていましたけれど、米友だけは蓑《みの》を着ていました。三人は脚絆《きゃはん》と草鞋に足を固めていましたけれど、米友だけは素足でありました。三人は大小を差していましたけれど、米友は無腰《むこし》でありました。
 さて、勢いよく門の外へ飛び出した三人は、卍巴《まんじともえ》と降る雪を刎《は》ね返してサッサと濶歩しましたけれども、米友は跛足《びっこ》の足を引摺って出かけました。
「米友」
 能登守が振返って呼ぶと、
「何だ」
 米友は傲然《ごうぜん》たる返事であります。
「冷たくはないか」
 能登守も南条も五十嵐も、歩みながら振返って、米友の素足を見ました。
「はッはッはッ」
 米友は嘲笑《あざわら》って、かえって自分に同情を寄せる先生たちの足許を見ました。この一行は勢いよく雪を冒して進んで行きます。どこへ行くのだか知れないけれども、たしかに荒川筋をめあてに行くものと見えました。
 前に言う通り天地はみんな雪であります。往来の人の気配《けはい》は極めて少なくあります。犬の子は威勢よく遊んでいました。たまに通りかかる人も、前に言うような見当から、誰も一行を怪しむものはありません。その中の一人が能登守であるということすらも気のついたものはありません。
 その同じ朝、神尾主膳は朝寝をしておりました。この人の朝寝は今に始まったことではないけれども、この朝は特別によく寝ていました。それは昨夜の夜更《よふか》しのせいもあったろうし、外はこの雪でもあるし、こうして寝かしておけばいつまで寝ているかわかりません。その神尾主膳が急に朝寝の夢を破られたのは、能登守の一行がその屋敷を出るとほとんど同時でありました。取次の言葉を聞いてこの無精者《ぶしょうもの》がガバと刎《は》ね起きたところを見ると、それは主膳の耳にかなりの大事と響いたものと見えます。
「よし、早速ここへ通せ」
 起き上らないうちからこう言ったところを見ても、いよいよ大事の注進を齎《もたら》したものがあることはたしかです。
 まもなく、主膳の寝間へ通されたものは役割の市五郎でした。
「神尾の殿様、逃げました、逃げました、いよいよ逃げ出しましたよ」
「どっちへ逃げた」
「代官町から荒川の筋、たしかに身延街道でございましょう。野郎共を三人ばかり、後を追っかけさせておきましたから、行方《ゆくえ》を突留める分にはなんでもございませんが、いざという時、野郎共では……」
「よし、後詰《ごづめ》はこちらでする。市五郎、其方《そのほう》大儀でも分部《わけべ》、山口、池野、増田へ沙汰をしてくれ、急いで鷹狩《たかがり》を催すと言ってここへ集まるように。表面《うわべ》は鷹狩だがこの鷹狩は火事よりせわしい」
「委細、承知致しました、それでは御免」
 市五郎はそこそこに辞して出かけました。それから後の神尾主膳の挙動は気忙しいもので、面《かお》を洗う、着物を着替える、家来を呼ぶ、配下の同心と小人《こびと》とを呼びにやる、女中を叱る、小者《こもの》を罵る。主膳がやっと衣服を改めてしまった時分に、この屋敷の門内へは、もう多くの人が集まりました。
「おお、おのおの方、大儀大儀、市五郎からお聞きでもござろう、近ごろ珍らしい鷹狩、獲物《えもの》に手ごたえがありそうじゃ」
「神尾殿の仰せの通り、近頃の雪見、それゆえ取る物も取り敢えず馳せつけて参った」
「さあ、同勢揃うたら、一刻も早く」
「かけ鳥の落ちて行く先は身延街道」
 なるほど鷹狩には違いなかろうが、鷹狩にしては、あんまり慌《あわただ》しい鷹狩であります。これらの同勢十八人は、雪を蹴立てて驀然《まっしぐら》に代官町の通りから荒川筋、身延街道をめがけて飛んで行きました。
 神尾主膳だけは残って、彼等の出て行く後ろ影を見送っていましたが、
「酒だ、前祝いの雪見酒」
 神尾主膳はそれから酒を飲みはじめたが、雪見の酒より
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