。名を知っているのみならず、郡内の道中で、親しくお近づきになっています。けれどもその人は甲州勤番の支配である。破牢の兵馬を糾弾《きゅうだん》すべき地位にある人で、それを擁護《ようご》すべき立場の人でないということはお松にもよくわかるはずです。それ故にせっかく兵馬の在所《ありか》を知ったものの、これから先がまだ心配でたまりません。
 ただ一つ心恃《こころだの》みなのは、能登守という殿様が、うちの殿様と違って、物事に思いやりのあるらしい殿様であることのみでありました。思いやりに縋《すが》ったならばと、お松はそこにいくらかの気休めを感じて、あれよこれよと考えはじめました。
 そのうちに、忘れていたのは、さきほど七兵衛が窓から投げ込んで行った品物であります。油紙に包んで凧糸《たこいと》で絡《から》げてある包みを解いて見ると、五寸ぐらいに切った一本の竹筒が現われました。その竹筒には何かいっぱいに詰め込まれてあるらしい重味が、なんとなく無気味に思われます。それでやはり凧糸で把手《とって》をこしらえて、提《さ》げるようにしてありましたところへ、懸想文《けそうぶみ》のような結状《むすびぶみ》が括《くく》りつけてありました。
 お松はそれを提げてみて、思わず微笑しないわけにはゆきませんでした。その竹筒の一端に「十八文」という烙印《やきいん》が捺《お》してあったからです。
 それでお松はすっかり合点がゆきました。「十八文」が一切を了解させてくれたのみならず、いろいろに胸を痛めたり心を苦しめたりしていたお松を、腹を抱えさせるほどに笑わせました。
 あの先生はおかしい先生であると思って、お松は思出し笑いをしながらも、その親切を嬉しく思いました。これは兵馬さんのための薬である。兵馬さんが病気であるために、おじさんが道庵先生に調合してもらって、ワザワザ持参したものと思って見れば、有難くて、その竹筒を推《お》しいただかないわけにはゆきません。
 してみれば、これを兵馬さんの許《もと》まで届ける責任は、わたしに在るとお松は勇み立ちました。別に厳重な封じもないのだから、その懸想文のような結状を取って開いて見ると、それは道庵先生一流の処方箋でありました。
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「もろこし我朝に、もろもろの医者達の出し申さるる薬礼の礼にもあらず……ただ病気全快の節は十八文と申して、滞りなく支払するぞと思ひきりて掛るほかには別の仔細候はず。」
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 こんなことが木版摺《もくはんずり》にしてあるのだから、問題にもなんにもなったものではありません。

         四

 お松が寝ついた時分からサラサラと雪が降りはじめました。
 翌朝になって見ると、峡中の二十五万石が雪で埋もれてしまいました。過ぐる夜の靄《もや》は墨と胡粉《ごふん》を以て天地を塗りつぶしたのですけれど、これは真白々《まっしろじろ》に乾坤《けんこん》を白殺《はくさつ》して、丸竜空《がんりゅうくう》に蟠《わだか》まる有様でありました。昨夜からかけて小歇《こや》みなく降っていたのが朝になって一層の威勢を加えました。東へ向いても笹子や大菩薩の峰を見ることができません。西へ向って白根連山の形も眼には入りません。南は富士の山、北は金峰山、名にし負う甲斐の国の四方を囲む山また山の姿を一つも見ることはできないので、ただ霏々《ひひ》として降り、繽紛《ひんぷん》として舞う雪花《せっか》を見るのみであります。
 白いものの極は畢竟《ひっきょう》、黒いものと同じ作用《はたらき》を為すものです。大雪の時は暗夜の時と同じように咫尺《しせき》を弁ぜぬことになります。この降り塩梅《あんばい》では大雪になると、誰もそう思わぬものはありません。
 この朝、駒井能登守の門内からこの雪を冒《おか》して一隊の人が外へ出ました。一隊の人といっては少し大袈裟《おおげさ》かも知れないが、その打扮《いでたち》の尋常でないことを見れば、一隊の人と言いたくなるのであります。
 人数は僅か四人――そのうち三人は笠を被って合羽《かっぱ》を着ていました。三人の中の一人はまさに主人の能登守でありました。その左右にいた二人は、家来の者らしくもあるし、家来ではないらしくもあるし、と言うまでもなくその一人は南条――能登守に亘理《わたり》と呼ばれて旧友のような扱いを受けた人――それから、も一人は五十嵐と呼ばれた人、つまりこの二人は過ぐる夜の破牢者の巨魁《きょかい》なのであります。こうして笠を被って合羽を着て、大小を差して並んでみれば、それは物騒な破牢者とは誰にも気取《けど》られることではありません。
 能登守を真中にして二人が左右を挟んで行けば、誰が見てもその用人であり家来衆であることの異議はないのであります。ただこの大雪に能登守の身分として馬
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