銀様の父の許《もと》を訪ねたこともあって、お銀様もその面影を知らないではありません。その人にここで会おうとは思いませんでした。会ってみれば、お銀様としても、さすがに恥かしい思いがしなければならないはずです。
「お銀どの……どうしてまたこの夜更けに、こんなところにお一人で……いや、それを承っていることも面倒じゃ、これはこのごろ流行《はや》りものの辻斬、拙者も今宵は忍びの道、かかわり合ってはおられぬ、この場はこのままにして立退き申そう、そなた様はいずれへお越しじゃ」
「はい、わたくしは」
「ともかくも、拙者が屋敷まで見えられるように」
「有難う存じまする」
「見廻りの者が来ないうちに」
「それでもこの子が……」
「さあ、その子は……」
二人がその子の始末に当惑している時に、火の番の拍子木が聞えました。
三
破牢のあったというその当夜から、ひとり胸を痛めているのはお松であります。
その破牢者のうちに宇津木兵馬があったということは、今や隠れもなき事実であります。けれどもその行方《ゆくえ》が今以てわからぬというのは、今宵もまんじりともしないほどお松の心を苦しめていました。お松の耳に入ったいろいろの噂は、破牢者のうちの無宿者の一隊は、どうやら山を越えて秩父の方へ逃げたものと、信濃路へ向ったものとがあるらしいということのほかに、その主謀者と見做《みな》されるものは、どうしてもこの市中に潜伏していなければならないということでありました。主謀者とは誰ぞ、宇津木兵馬はその人ではあるまいけれど、その人に荷担《かたん》した時はその人と責任を共にする人であるとは、お松も想像しないわけにはゆきません。
してみれば、兵馬さんはこの甲府の市中のいずれかに隠れている。どこに隠れているだろう。果して隠れ了《おお》せてこの地を逃げ延びることができればそれは結構であるけれど、もうその評判がお松の耳にまで聞えるようになっては、この狭い天地でさえも危ない――とお松はそれを考えると、剣《つるぎ》の刃を渡るようにハラハラしました。
「お松ちゃん、お松ちゃん」
窓の戸をトントンと叩いて、わが名を忍びやかに呼ぶ者のあるのは覚えのある声で、お松にとっては必ずしも寝耳に水ではありません。
「はい」
窓の戸を開きますと、そこから首を出したのは七兵衛でありました。
「おじ様」
「お松、ちょっと耳を貸してくれ」
七兵衛の来るのは、いつもあわただしいものであります。いつなんどき来て、いつなんどき帰るのだかわかりませんでした。こうして夜中に合図をして不意に訪《おとな》うことには、少なくともお松は慣れているのであります。
「兵馬さんはいるよ。うむ、うむ、この甲府の中に、それはな、思いがけないところへ逃げ込んでいるから、まあ今のところ無事だ。今のところは無事だけれども、その大将がこれからどうするつもりかそれは知れない、いったん隠して置いて養生をさせて、それから改めて突き出すつもりなんだか、それとも隠し了《おお》せて逃がすつもりなのか、そこのところがわからねえ」
七兵衛がお松の耳に口を当ててささやくと、
「まあ、兵馬さんがこの甲府の町の中にいらっしゃる? それはどこでございます、おじさん」
「それはちっと思いがけねえところなんだ。俺はな、そこから兵馬さんを盗み出して、無事なところへお逃がし申したいと思ってるんだが、そこの家には犬がいて……意気地のねえような話だが、犬がいるために俺はその邸へ近寄れねえのだ」
「おじさん、それはどこなんでございますよ、おじさんが行けなければ、わたしがなんとか工夫してみますから」
「それはお前、二の廓《くるわ》のお役宅で、駒井能登守様のお邸だ」
「あの御支配の殿様の?」
「そうだ、たしかに兵馬さんは、あのお邸に隠れている、そりゃ役人たちにもまだ目が届かねえ、外からそれを見届けたのは俺ひとりだ」
「まあ、あの御支配の駒井能登守様のお邸に兵馬さんが……」
お松は寧《むし》ろ呆《あき》れました。七兵衛が、まだ何をか言おうとした時に、裏の木戸口がギーッと言いました。人があってあけたもののようです。このとき早く七兵衛は、窓から何物をかお松の部屋へ投げ込んだまま闇の中へ姿を隠してしまいました。
暗いところから入って来たのは意外にも、主人の神尾主膳でありました。
「お松、まだ寝ないのか」
「はい、まだ」
お松は窓の戸を締めきらないうちに、主人から言葉をかけられてドギマギして、
「今、誰か来ていたようだが」
お松はハッとしました。
「いいえ、誰も」
この返事も大へん慌《あわ》てた返事でしたけれども、主膳は深く気にしないで、そのまま行ってしまいました。お松はホッと息をついて窓を締めて座につきました。
駒井能登守の名はお松もよく知っています
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